pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 53章

 「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(5節)

イザヤ書53章は、「苦難のしもべ」と呼ばれる箇所で、イエス・キリストの預言として新約聖書で引用されています。使徒ペテロもこの箇所を引用してこう言っています。

「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(Ⅰペテロ2:24)

LBでは4節をこう訳しています。

「ところが、彼が背負い込んだのは、実は私たちの悲しみであり、彼を押しつぶしたのは、私たちの嘆きでした。」

イエス・キリストの十字架の受難が、実は自分のためであったと認識するとき、私たちの人生は一八〇度変わります。メル・ギブソンの「パッション」(受難)の映画は、この視点から見るならば、私たちにいやしをもたらします。

イザヤ 52章

※ 本日,11時から14時まで、教会ではバザーを開催しています。ぜひ、お出かけください!

「良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる。』とシオンに言う者の足は。」(7節)
 
聖書が言う「良い知らせ」、「福音」とは、

「あなたの神が王となる。」

ということです。四つの福音書すべてが、イエス・キリストが十字架に架けられた時、その罪状書きには、

「ユダヤ人の王」

と書いてあったことを記録しています。つまり、神は、神の御子イエス・キリストが十字架に架かられることによって王となられたというのです。事実、三日目に死から復活されたことを通して、最後の敵である死をも滅ぼされたことを示しました。死のとげは切り取られました。使徒パウロは言います。

「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(Ⅰコリント15:57新共同訳)

イエス・キリストの十字架の御業を宣べ伝えることは美しいことです。

イザヤ 51章

「まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。」(3節)
 
 神様の約束は、イエス・キリストによってすでに成就しました。罪の呪いはすでに除かれました。しかし、まだ、私たちはこの預言に約束された秩序や美しさや豊かさの完全な回復を見ていません。これらは、イエス・キリストが再臨される時、完全に成就します。神の国は、今、キリスト者たちを通してこの世界に浸透しています。キリスト者がこの世界でひざまずき、祈りを捧げることを通して、神の国の慰めがもたらされます。私たちが礼拝を捧げるその場所、楽しみと喜び、感謝と歌声があるその場所が、主の園のようになっていきます。今日は、主の日です。心から神を楽しみ、喜び、感謝と歌声を上げ、荒野を主の園のようにしていただこうではないでしょうか!
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※ 本日のSSCの第三礼拝(18時)は、明日もたれるバザーの準備のため、お休みです。

バザーは、明日、11時から14時まで。

皆様のお越しをお待ちしています!

イザヤ 50章

「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(4節)

LBではこう訳しています。

「神様は私に、知恵の言葉を授けました。疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるためです。朝ごとに、神様は私の目を覚まし、理解力を深め、みこころを示してくださいます。」

神様は、朝ごとに、聖書のみことばを与えてくれます。私たちは聖書を開くたびに、理解力が深められていきます。興味深いことは、神様が私たちに御言葉を授けてくれるのは

「疲れきった人に何を言ったらいいかを教えるため」

だと言います。私たちは自分の教養のためというよりも、人々を励ますために日々神のみことばを受け取る必要があると言います。

「主よ、誰かを励ますことができるように、今日もあなたのみことばを与えてください。」

イザヤ 49章

 「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」(16節)

LBではこう訳しています。

「わたしはおまえの名を手のひらに入れ墨した。わたしの目の前にはいつも、くずれたエルサレムの城壁がちらついている。」

私たちは時として、「神様は自分のことなんか忘れてしまったのではないか」と感じてしまう時があります。しかし、それはありえないと聖書は言います。私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じる時に、私たちの名は神様の手のひらに刻まれるというのです。ただ、墨字で書くのではなくて、永遠に残るように刻むというのです。つまり、神様が私たちを忘れることはないということです。そして、神様は私たちの状況もしっかりと分かっていると言います。神様は決して私たちを見放さず、見捨てません。

イザヤ 48章

「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(17節)

 聖書の神は、私たちに益になることを教え、私たちを導いてくださる主です。具体的に、聖書には、私たちの益になることが記されています。ですから使徒パウロもこう言っています。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3:16新共同訳)

さらに聖書は私たちに有益なだけでなく、私たちの歩みを導いてくれるものでもあります。ですから、詩人はこう歌っています。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105新共同訳)

 
「神様、あなたが私たちに聖書を与えてくださったことを感謝します。」
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Yes, everything else is worthless when compared with the priceless gain of knowing Christ Jesus my Lord. (Phil.3:8NLT)
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イザヤ 47章

 「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。」(13節)

この箇所は、バビロン帝国に対する裁きの預言です。バビロン帝国は占星術が発展していた国でした。バビロンの人々は占星術者、呪術者たちに伺いを立てるのですが、それぞれが違う助言をして、混乱していました。そして、結局のところ、

「自分さえ救えないのだから、とても頼りにはならない。」(14節LB)

ということが起きていたのです。占いは聖書が禁じていることであり、私たちは気をつける必要があります。しかし、占いではなくても、助言する者が多すぎると、私たちは混乱してしまいます。助言を求めることがすべて悪いことではありませんが、まず、まことの神様に、祈り求め、みことばに耳を傾ける必要があります。

イザヤ 46章

「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(13節)

神様の時があります。今日の箇所の前半部分をLBではこう訳しています。

「わたしはおまえたちを救う。遠い将来ではなく、今すぐだ。すでにお前たちを救う準備は整った。」

神様の御業は遅すぎることはなく、最高のタイミングでそれは成し遂げられます。ですから、詩人もこう言っています。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩46:1)

口語訳では、

「悩める時のいと近き助けである。」

と訳していますが、神様は遠くありません。私たちの祈りに答えてくださる主は、今も生きておられ、今答えてくださいます。それでも祈りの答えが遅れているとするならば、そこに神様のご計画を認める必要があります。

イザヤ 45章

 「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」(2節)

 険しい地を歩んでいるように感じる時も、神様は、私たちの前に進んで、その道を整えてくださっていると聖書は言います。つまり、私たちが進む道を、神様は準備してくださっていると言うのです。ですから、たとえ今、険しい地を歩んでいるように感じても、このみことばをしっかり握りしめていこうではないでしょうか。私たちのこれからの人生のために、神様が前もって私たちの道を準備されているというのですから。さらにこの次の3節には、こんな約束があります。

「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

「主よ、あなたに信頼し、期待します。」