pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

エレミヤ 19章

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」(15節)

当時の人々の問題は、強情を張り、神様のことばを聞こうとしなかったことでした。しかし、人間の本質は昔も今も変わることなく、今も強情を張って、神様のことばに耳を傾けようとしないという問題があります。信仰は聞くことから始まりますから、聖書のみことばに耳を傾けないことには何も始まりません。自分の思い、自分の考えを優先させ、聖書の権威を認めることができなければ、当時のイスラエルの人と同じ過ちを繰り返してしまうことになります。心をやわらかくして、聖書の権威を受け入れ、神のみことばに耳を傾けることができますように。

エレミヤ 18章

 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ。―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(6節)

 「この陶器師のように」とありますが、前半部分にこう記されています。

「『さあ、陶器を作っている家に行け。そこで、おまえに話そう。』言われたとおりにすると、陶器師はろくろを回している最中でした。ところが、彼は手がけていたつぼが気に入らなかったので、それをつぶして粘土のかたまりにし、初めからやり直しました。」(2-4節LB)

この時、神様がエレミヤに語られました。神様はこの陶器師のような方であり、私たちはまさに神の手の中にある粘土のような存在です。これはまさに、絶対的な神の主権を現しています。この絶対的な神の主権を認めることは大切なことです。

エレミヤ 17章

「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(10節)

 LBではこう訳しています。

「ただわたしだけが人の心を知っていて、すみずみまで探り、いちばん奥に隠された動機まで調べ上げる。そして、一人一人にそれぞれの生き方に応じた報いを与える。」

神様は私たちの心、私たちの動機の部分まで見ておられると聖書は言います。このことをよく現しているのがヨブ記でもあります。ヨブ記は、どうして私たちがこの地で正しく生きようとするのか、その動機は何か?ということがテーマになっています。ご利益があるから正しく生きようとするのか?もし、そうならば、ご利益を失ったら、正しく生きることをやめてしまうのか?神様は、まさに、私たちの動機の部分を見ておられると言います。結局のところ私たちの動機は、私たちの生き方にも反映します。

なぜ、正しく生きようとするのか?

あなたの動機は何でしょうか?

エレミヤ 16章

「人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」と。」(20節)

 LBではこう訳しています。

「神を作ることが人間にできるでしょうか。人間の作る神々は本物の神ではありません。」

人間が作る神々は、聖書的には神ではありません。聖書に出てくる神の名は「YHWH」で、それは英語の「BE動詞」にあたり、存在を意味します。つまり、自立自存の神という意味があります。ですから、何か原因があって存在したものは、聖書の定義では神とは呼べないのです。人間が作り出したものは、神とは呼べません。しかし、いつの時代も人間は神々を作ろうとします。自分に都合のよい神々を作り出そうとするのです。しかし、聖書ははっきりと、

「そんなものは神ではない」

と言います。

私たちは、自分の理想の神々を考え出すのではなく、神の言葉である聖書からまことの神を学ぶ必要があります。

エレミヤ 14章

「異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。」(22節)

メッセージという訳では、最後の部分をこう訳しています。

「あなたはそのすべてを造られた。そのすべてをなされた。」

聖書の神は、天地万物を造られた神です。ここに希望があります。LBではこう訳しています。

「どこの国の神が、私たちのために雨を降らせるでしょう。私たちの神様以外に、このようなことのできる神はいません。ですから私たちは、神様が助けてくださるのを待っているのです。」

天地万物を造られただけではなく、私たちを助けてくださる神様だと預言者は言います。私たちに関心をもち、私たちの祈りに耳を傾けられるお方だというのです。ですから、私たちは祈りつつ、主を待つ姿勢が求められます。

エレミヤ 13章

  「耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。」(15節)

メッセージという訳ではこう訳しています。

「聞きなさい。注意深く聞きなさい。あなたのやり方に固執してはいけない。ここでは、神のメッセージを取り扱っているのだから。」

自分の考え、自分のやり方に固執しすぎますと、神のみことばを聞くことができなくなってしまいます。自分の哲学が神のみこころを理解しようとする思いを邪魔するのです。そもそも自分の考え、自分のやり方の方が、神の考えよりも優れていると考えること自体、思い上がっているということを示すのだと思います。私たちは、聖書を信仰と生活の規範とするという福音主義を大事にしています。神がお語りになられたことを、素直に聞くことを大事にしています。神のみことばである聖書のみことばに耳をふさぐならば、そこには、「視界ゼロの暗闇」(LB)が待っています。神のみ言葉だけが私たちの足の灯火、私たちの道の光だからです。

※ 本日のSSCの第二礼拝はリラの特別賛美と塚田献先生のメッセージ。第三礼拝はお休みです。

本日午後、リラの二〇周年記念コンサートが東京で開催されます。

エレミヤ 12章

「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。」(1節)

神に質問することは、悪いことではありません。生きている限り、疑問を持つことがないほうが不自然です。エレミヤは、

「神様が正しいのは分かっていますが、二,三のことを話させてください」

と言います。これは、不信仰ということではなく、信じるがゆえの質問であり、神はこれを受け止めてくださいます。これもまた、神に向き合うことであり、祈りの一つです。しかし、分からないことのゆえに、分かっていることを手放してはいけません。エレミヤは、理解できないことがありましたが、だからといって、神のほうが正しいということは手放しませんでした。私たちは神ではありません。すべてを理解することはできません。

12月の日曜日 December Sundays

1日(日)  10時半(HC) ヘブル12:1 -:3 「自分の前に置かれた喜びのゆえに」 塚田献牧師

※ 9時は小山牧師メッセージ(HC)、18時からの礼拝はお休み      (HC)=聖餐式

8日(日)  コロサイ3:18 -4:1 「ベストを尽くして」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

15日(日)  コロサイ4:2 -:9 「祈りをやめてはいけません」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

22日(日) クリスマス特別礼拝

9時、10時半(礼拝後、祝会を行います。)、(※18時からの礼拝はお休み)

23日(月) 17時 港南台高島屋前にてキャロリング

24日(火) 19時 キャンドルサービス(19時)

29日(日) コロサイ4:10 -:18「励まし合いながら」 小山英児牧師

9時、10時半、18時

エレミヤ 11章

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から導き出した日に、彼らをはっきり戒め、また今日まで、『わたしの声を聞け。』と言って、しきりに戒めてきた。」(7節)

神様はイスラエルの民に、エジプトから救い出してから今に至るまで、朝に夜に、警告し続けたと言います。

「わたしの声を聞け。」

と。問題は、彼らは従わないどころか、神様の存在すら注意を払うこともありませんでした。自分がしたいことを、自分がしたい時にしていました。その結果、イスラエル(南ユダ王国)の民はバビロン捕囚されていきます。
イエス・キリストを信じることは、出エジプトを体験することでもあります。私たちは暗闇の支配から救い出されました。そして、神様はイスラエルの民と同じように私たちに、

「わたしの声を聞け。」

と言われています。神様を無視せずに、神のみことばである聖書に耳を傾けようではないでしょうか。

エレミヤ 10章

「主はこう仰せられる。「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。」(2節)

 古くからバビロニアで占星術がよく行われていたことは歴史的に認識されています。ですからLBではこう訳しています。

『天宮図を作って、星占いで、自分の運命や将来を読もうとする者のまねをしてはいけない。』

聖書は明確に占いを禁じています。占いの危険性は、その占いに人生が縛られてしまうということがまず挙げられます。占いは、結局、その人を支配します。もちろん、悪霊の問題もあるのですが、それ以上に神様を求めるということを妨げます。神様のみこころを求めて、祈り、聖書を読むという神様との親しい関係を築くことを妨げます。神様の計画は、はっきりしています。神様は言われます。

「それは災いではなく祝福を与える計画で、ばら色の将来と希望を約束する。」(エレミヤ29:11LB)