pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

レビ記 26章

「あなたがたは自分のために偶像を造ってはならない。また自分のために刻んだ像や石の柱を立ててはならない。あなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしがあなたがたの神、主だからである。」(1節)

神はYHWH(ヤハウェ「主」)だから、偶像を造ってはいけないと聖書は言います。YHWHの意味は、英語のBE動詞にあたる、「存在する」(出エジプト3:14)です。「存在される(自立自存)」のお方が、人(被造物)の手で造られた偶像になぞらえられるのは侮辱以外の何ものでもありません。また、「存在する」神は、今生きて働かれておられるお方ですから、過去の記念品のように偶像として拝まれることは、存在していることを否定されることでもあります。もっとも物体として彫刻しなくても、頭の中で自分の好みの神という偶像を作ってしまうこともあると思います。私たちは聖書から、まことの神、YHWHを知る必要があります。

レビ記 25章

「イスラエル人に告げて言え。わたしが与えようとしている地にあなたがたがはいったとき、その地は主の安息を守らなければならない。」(2節)

神はイスラエルの人々に、七年ごとに土地を休ませることを命じました。しかし四九〇年間、彼らはこの戒めを守らなかったとある学者は指摘します。その結果、四九〇年後に彼らはバビロン帝国に捕囚され、必然的に土地は七〇年間の休みを得ました。つまり、四九〇年分の七年ごとの休み、失われた七〇年分をその時、傷みをもって捧げたのです。土地を七年ごとに休めることに意味があったように、献金を捧げることにも意味があります。ある牧師は、人は皆、結局のところ収入の十分の一を捧げていると言います。献金という祝福された形で神に捧げない人も、結局、その分を痛みをもって失ってると言います。しかし、捧げる人に神は次の約束を与えています。

「心配はいらない。六年目を豊作にし、たっぷり三年分の収穫を上げさせよう。」(21,22節LB)

レビ記 24章

「骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。」(20節)

償いの義務に関する有名な律法ですが、キリストは本当の意味をこう語っています。

「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(マタイ5:38,39)

もともとレビ記で言いたかったことは、度を超えた復讐の制限でした。復讐の連鎖は何も生み出さないからです。キリストは自分を嘲る人々に嘲り返すことはしませんでした。自分に唾を吐く人に、唾を吐き返しませんでした。自分を裏切った人々に、裏切り返すことはしませんでした。ご自分を否定し、無視する人類を救うために十字架の上で死んで下さいました。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)

レビ記 23章

「あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。」(42、43節)

毎年居心地の良い自分の家を離れ、なつめやしの葉で作られた小さな仮小屋で八日間過ごすことを、神はイスラエルの民に求められました。仮小屋で過ごす不便な八日間、神の愛と神がいかに自分のことを気にかけておられるかを彼らは感じることができました。先祖たちが荒野で喉が渇いて死にそうになった時、神が岩から水をだしてくださったことを思い出しました。

この祭りの終わりの日にキリストは立ち上がり言いました。

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)

私たちは仮庵の祭りを祝いませんが、祭りが指し示すキリストを祝います。

レビ記 22章

「また、人が特別の誓願を果たすため、あるいは進んでささげるささげ物として、牛か羊の中から和解のいけにえを主にささげるときは、それが受け入れられるためには傷のないものでなければならない。それにはどのような欠陥もあってはならない。」(21節)

いけにえをささげるときに、神は傷のないものでなければいけないと言われました。そのように言わなければ、人が残り物や、どうでもいいものを捧げるという傾向があることを知っていたからだと思われます。神はアクセサリーではなく、王の王、主の主なる偉大なる神です。もっとも、究極的に傷のないものとは何でしょうか。それは、イエス・キリストです。イエス・キリストという完全ないけにえを通してのみ、人は神に近づくことができます。イエス様は言われました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)

レビ記 21章

「彼らは自分の神に対して聖でなければならない。また自分の神の御名を汚してはならない。彼らは、主への火によるささげ物、彼らの神のパンをささげるからである。彼らは聖でなければならない。」(6節)

ここでは儀式的な清さについて言及しています。ボウカムという学者がこのような解説をしています。

「穢れとは、人々がさまざまなものと接触して身に受けてしまう、ある種の目に見えない汚染のようなものと考えるのがもっとも妥当だろう。私たちの目には奇妙に映るかもしれないが、伝統的な人々の多くは儀式的な清さという考えをもっている。・・・神が神殿に宿っているとは、そこに清浄な空間が生み出されているということであり、その聖域に穢れた状態の人間が入ってしまうとその清浄さが損なわれてしまうということだったのだ。」

イエスの十字架はすべての穢れから私たちを清めます。

レビ記 20章

「あなたはイスラエル人に言わなければならない。イスラエル人、またはイスラエルにいる在留異国人のうちで、自分の子どもをモレクに与える者は、だれでも必ず殺さなければならない。この国の人々は彼を石で打ち殺さなければならない。」(2節)

この章には、死刑に値する道徳的行為に関して記されています。「自分の子どもをモレクに与える」というのは、当時、カナンの地で行われていた赤ん坊をカナンのカミにいけにえとして殺して捧げるという行為のことです。もし、そのような事が許されてしまうのならば、イスラエルの社会はもっと混乱していたことでしょう。それから霊媒など、オカルトに関しての言及もあります。これらは皆、人を破滅に追いやるものです。神はイスラエルの国を守るために、これらのものから引き離す必要がありました。どんなに力があるように見えても、これらの類は避ける必要があります。

レビ記 19章

「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(18節)

律法学者の

「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)

という質問に対して、イエス様は、まず、申命記6:5

「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」

を引用し、その次に今日の箇所、

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」

を引用します。何があっても、この二つの命令を大切にすることが、キリスト教会の根幹だと言われたのです。

教会はまず、神を愛するために存在しています。

礼拝、賛美、祈りは、教会の最優先事項です。

そして、教会は互いに愛し合うために存在しています。

共にキリストのからだである教会をこの地に建てあげることを神は願われています。

最後に教会はこの世を愛するために存在しています。

神は世を愛し、ひとり子を与えられました。

レビ記 17章

「なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。」(11節)

この箇所は輸血を問題にしている箇所ではありません。いのちを贖うためには血でなければならないということを明確にしている箇所です。ペテロの手紙第一にこうあります。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1:18,19)

キリストがどうして十字架の上で、その血を流さなければならなかったかが、この箇所で明確になります。それは、私たちを贖うためには血でなければならなかったからです。
「イエス様、私たちのために尊い血潮を流してくださったことを感謝します。」

レビ記 16章

「主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現われるからである。」(2節)

聖なる神が現れる時、罪ある人はその前で死んでしまいます。ですから大祭司であっても、自分のためにいけにえを捧げて、様々な規定にしたがって、聖所に入る必要がありました。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり死んでくださった時、

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マルコ15:38)

とあります。今、イエスの十字架の御業のゆえに聖書は言います。

「私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

今日は主の日。イエス様の十字架の御業を感謝しつつ、礼拝を捧げましょう。