pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

使徒 23章

「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」(11節)

使徒パウロは、キリストをもっとも信じて欲しかった同胞のユダヤ人たちに拒絶され、落ち込んだのだと思います。主がパウロの側に立って、彼を励ましました。

「エルサレムでは大変だったけれども、よくわたしのことをあかししてくれた。さあ、今度は、ローマでわたしのことをあかししなさい。」

神様は、過去を脇に置かせて、未来に目を向けさせました。

私たちもパウロと同じように、仲間から拒絶されたり、見捨てられてしまうことがあります。しかし、主は私たちを見捨てることはありません。暗やみに囲まれたような時も、私たちのそばに立って、過去を脇に置かせ、未来に目を向けさせてくださいます。そして言われます。

「勇気を出しなさい。あなたの人生には目的があります。」

使徒 22章

「そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。」(8節)

使徒パウロは、彼の長年の夢でもありました同胞への伝道のチャンスに、神学的論争ではなく、自分の個人的な体験、「証」を話しました。誰かにイエス・キリストのことを伝えるのに一番力強い方法は、自分のイエス・キリストとの体験を語ることです。(ですから専門的な教育をうけてなくても伝道はできます。)イエス・キリストが自分の人生に何をし、何が変わったかを人々に語ることはとてもインパクトがあります。誰も否定することはできないからです。パウロのポイントは三つでした。まず、彼がどういう人物であったか、彼の過去。そして、彼の回心、彼の人生に神が介入されたこと。最後に、これからのこと。神がすべての人に福音を伝えるように命じたことを話しました。パウロのように、いつでも自分の証を語れますように。

使徒 21章

「するとパウロは、『あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。』と答えた。」(13節)

当時のキリスト教会にとって使徒パウロの異邦人伝道の働きは、さらに発展が見込めるものでした。ところがパウロは、もっとも危険な場所、エルサレムに行こうとしていました。ですから仲間たちはパウロを止めようとしました。

「どうして、エルサレムに行こうとするのですか?教会はあなたを必要としているではないですか。あなたを歓迎する場所があるのに、どうして、あなたに危害を加えようとしている人たちのところに行こうとするのですか?」

パウロは言います。

「問題は彼らが私に何をするかではない。私の主、イエスが、私の従順を通して何をなされるかだ。」

私たちはパウロのような、状況でなく神を中心とした視点が必要です。

使徒 20章

「このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」(35節)

「受けるよりも与えるほうが幸いである。」

というイエス様の言葉は、福音書の中には見つけることができません。そもそも、福音書には、すべてのイエス様のことばが記録されているわけではありませんから、不思議なことではないと思います。(ヨハネ21:25参照)使徒パウロがこのみことばを覚えていたのは、当時の教会では当たり前に覚えられていたからだと思われます。大和カルバリーチャペルの玄関には、

「私たちは与えるために生きている。私たちは与えることが大好きだ。」

という英語のサインが飾られています。与える幸いを知っている人は祝福されます。与えていく時に、さらに与えるものが与えられます。与える人生は幸いです。

使徒 19章

「しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。」(9節)

ツラノの講堂は、市場の門のところにあり、パウロは学生たちが昼食のために家に帰る昼休みの時間を利用してこの場所を借りて教えていたと考えられています。二年間毎日、聖書を教えた結果、

「アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」(10節)

と言います。さらに、

「神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。」(11節)

とありますから、聖書の教えとそれに伴う奇蹟がパウロの働きの中心だったことが分かります。病気はいやされ、悪霊は出て行きました。まさに、同じことが今日の教会の働きにも言えると思います。教会は日々、聖書のみことばを教えている場所です。そして、神はそのような聖書的な教会を用いて、今も、奇蹟を行われます。

使徒 18章

「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから。』と言われた。」(9,10節)

使徒パウロがイエス・キリストを伝える所はどこでも、人々は彼に反対しました。彼は打たれ、牢に入れられ、石打にされました。彼は

「弱々しく、おずおずと、震えおののきながら」(Ⅱコリント2:3LB)

コリントの町に行きました。そんな彼にイエス様は語られました。

「恐れないで語り続けなさい。わたしがあなたとともにいるのだ。」

恐れへの処方箋は、神の臨在の認識です。

イエス様が共にいるという事実を認識する時、私たちはもう一度立ち上がることができます。主は言われます。

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)

使徒 17章

「アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。」(21節)

アテネ人の問題は、何か耳新しいことばかり求めていたことでした。このようなアテネ人症候群はいつの時代にもどこの場所にも起こりえます。神が何を語ろうとしているのか知りたくて聖書を勉強するのと、何か耳新しいことを聞きたくて聖書を勉強するのとでは雲泥の差があります。そのような危険に関してパウロはこのように言及しています。

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうのよい話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。」(Ⅱテモテ4:3LB)

キリスト教界においては、「耳新しいこと」は注意する必要があります。約二千年間の間に気づかないようなことは、ほぼあり得ません。私たちは謙そんに、「耳新しいこと」ではなく、聖書の真理のみことばに耳を傾ける必要があります。

今日は主の日。主の御言葉に共に耳を傾けましょう。

使徒 16章

「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」(25節)

ピリピの町で宣教活動をしていた使徒パウロとシラスは、捕らえられ、何度もむちで打たれ、牢に入れられ、足に足かせを掛けられました。それはまさに人生の真夜中のような状態でした。そんなパウロとシラスが、真夜中ごろにしたことは、祈りつつ賛美の歌を歌うことでした。彼らの肉体は捕らえられていましたが、彼らの魂は自由でした。悲しんだり、不平不満を言うよりも、彼らは暗い牢を礼拝堂へと変えてしまいました。主に焦点を当てれば当てるほど、問題は小さくなっていきました。賛美の歌を歌う時、私たちの思いは、私たち自身から、主に焦点を変換させます。そして、賛美に満ち溢れた場所に神の力は解き放たれます。パウロとシラスを縛っていた鎖は解け、牢は開きました。神の奇跡の力を体験したいのであれば、私たちはすべてのことを感謝し、賛美の歌を歌うべきです。

使徒 15章

「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(11節)

三浦綾子さんの興味深い聖書解釈があります。

「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5:14)

とイエス様がおっしゃったのは、

「どんな人も世の光として神がその生を赦していてくださる」

という解釈です。イエス様は、「あなたは世の暗闇」とは言いませんでした。あれでも、あんな人でも世の光、神様が命を与えてくださったからには、その人の存在を否定してはいけないと。

今日の箇所で、使徒ペテロは、ユダヤ人クリスチャンたちに、異邦人クリスチャンの存在を否定しないように言います。この世は誰一人、自力で救われた人はいません。みんな、神の一方的な恵みによって救われました。お互いの存在を尊重し合う必要があります。

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」(エペソ4:32)

使徒 14章

「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」(15節)

使徒パウロたちの奇跡的な働きを見た人々は、彼らを「神々だ」とまつりあげようとしました町のゼウス神殿の祭司までが、彼らにいけにをささげようとしました。それでパウロは叫びました。

「皆さん。なんということをするのです。私たちは、皆さんと同じ、ただの人間ではありませんか。こんな愚かなことはおやめなさい!天と地と海、それにその中のすべてのものをお造りになった神を礼拝しなさい。私たちは、そのために、福音を伝えに来たのです。」(LB)

どんな人であっても、人間を偶像視すべきではありません。人間は人間です。私たちは天地万物をお造りになった造り主だけに礼拝を捧げるように召されています。