pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ヨシュア 5章

「彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。」(12節)

イスラエルの民は、神が与えられたカナンの地に住み、その地を耕作し、管理し、生活の糧を得て歩むようにと導かれました。神は約束の地をイスラエルの民に与えられただけでなく、イスラエルの民が責任をもって約束の地で糧を得るようにされました。天からのマナは降らなくなってしまったのです。神は私たちが受動的な信仰に終始することは望まれません。使徒パウロは言います。

「わたしの愛する者たちよ。(中略)恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」(ピリピ2:12,13口語訳)

神は私たちの心に働かれますが、私たちが努める側面があります。

ヨシュア 4章

「イスラエルの人々に、次のように言った。「後になって、あなたがたの子どもたちがその父たちに、『これらの石はどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは、その子どもたちにこう言って教えなければならない。『イスラエルは、このヨルダン川のかわいた土の上を渡ったのだ。』」(21,22節)

ギルガルの地に積み上げられた十二の石は記念碑でした。神は私たちが神の御業を忘れやすいことをご存知だということだと思います。確かに残念ながら、私たちは神の恵みを忘れてしまいやすい傾向があると思います。さらに、ここでの記念碑は、次世代の子どもたちのためだと言います。神の恵みの御業を次世代に伝えることは大事なことだと思います。具体的には、神が私たちに与えてくださったライフ・メッセージ(人生の物語・証)を書き遺すこともできると思います。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩篇103:2)

ヨシュア 3章

「全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」(13節)

神は私たちが成長することができるように信仰のレッスンを与える方です。15節にはこう記されています。

「ちょうど刈り入れの季節を迎えたヨルダン川は、岸いっぱいに水をたたえていました。人々が川を渡ろうと出発し、箱をかつぐ祭司たちが足を入れた瞬間、はるか上の上流のツァレタン付近の町アダムで、水はダムにせき止めたられたように、盛り上がり始めたではありませんか。」(LB)

彼らが足を入れるまで、水はそこにありました。彼らの足は濡れる必要がありました。しかし、足を入れた瞬間、ヨルダン川の流れは止まりました。神は私たちに、たとえその足が濡れても、信仰の一歩を踏み出して欲しいと願われます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨシュア 2章

「私たちが、この地にはいって来たなら、あなたは、私たちをつり降ろした窓に、この赤いひもを結びつけておかなければならない。また、あなたの父と母、兄弟、また、あなたの父の家族を全部、あなたの家に集めておかなければならない。」(18節)

エジプトでは、小羊の血を塗った家の初子のいのちが守られました。このエリコの場合は、赤いひもを結びつけておいたラハブの家の中にいる人たちのいのちが守られました。神は私たちのためにも逃れの場所を設けてくださいました。私たちに用意された安全な場所は、私たちのために十字架にかかり、その血潮を流されたイエス・キリストの中です。聖書は言います。

「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1現代訳)

イエス・キリストの中に人々を集めることが、教会の役割です。

ヨシュア 1章

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」」(9節)

恐れや不安に対する聖書が処方する特効薬は、神様の臨在です。神様がともにおられるという事実が、私たちを恐れや不安から解放してくれます。ダビデ王も、そのことをよく理解してこう歌っています。

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)

神様の臨在が恐れと不安を取り除いてくださいます。復活されたイエス様が、天に戻られる前に恐れと不安の中にいた弟子たちにこう約束されました。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

彼らは恐れや不安が来たらいつも、このみことばの約束を宣言していたのだとおもいます。

使徒 28章

「そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。」(23,24節)

使徒パウロは朝から晩まで一生懸命、聖書を用いて説得しようとしました。しかし、「ある人々は信じようとしなかった」と聖書は言います。「信じられない」のと、「信じようとしない」のとでは大きな差があります。「信じられない」ならば、信じられるようになります。しかし、「信じようとしない」ならば、いつまでたっても、信じることはできません。大伝道者、使徒パウロの聖霊に満ちたメッセージでも、不可能だったのです。しかし、それでも信仰は聞くことからはじまると言いますから、私たちはあきらめずに語り続けることが大切なことではないでしょうか。

使徒 27章

「ですから、皆さん。元気を出しなさい。すべて私に告げられたとおりになると、私は神によって信じています。」(25節)

嵐と闇、それにいつ難破するかわからない危険の中で、船の中にいた人々は、不安と恐怖におののいていました。その中でただ一人、落ちついて人々を励ましている人がいました。それが使徒パウロでした。キリスト教の特徴は希望です。私たちはイエス・キリストが死の力を打ち破ってよみがえり、今生きておられることを信じています。人生がたとえどんなに暗闇であったとしても、よみがえられたキリストの臨在は、私たちを励まします。私たちにとって死は、「死の陰の谷」と呼ばれるように一時的であり、死の向こうに天の御国への希望があります。ですから、キリスト者は私たちの周りにいる人々をも励ますことができるようになります。いつも共におられるキリストの臨在は、私たちの恐れを取り去るためだけではなく、元気を失っている人々を励ますためでもあります。

使徒 26章

「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」(29節)

使徒パウロはアグリッパ王たちを前にして弁明をしました。それはパウロの証でした。彼の宣教活動は、

「天からの幻に従った」

のだと言いました。アグリッパ王は言います。

「お前は短時間で私を説き伏せて、キリスト者にしようというのか。」(28節岩波)

それに対してパウロは言いました。

「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです。」

パウロは囚われの身でした。しかし、パウロは、キリストを信じて生きていることに、後悔するどころか、幸いを感じていました。だから、パウロは

「わたしのようにクリスチャンになってください」

と、堂々と言いました。

パウロはキリストと共にある幸いに生きていたのです。

使徒 25章

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関することであり、また、死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのでした。」(19節)

使徒パウロの主張は、イエス・キリストが生きているということでした。キリスト教会の主張も、キリストが生きているということです。復活は福音の中心です。もし、キリストが死からよみがえられなければ、十字架は意味がありません。ですから使徒パウロは言いました。

「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。」(Ⅰコリント15:14口語訳)

クリスチャンの信仰は、死からよみがえられたイエス・キリストの復活に見いだすことができます。使徒ペテロは言いました。

「キリストが死者の中から復活してくださったことにより、私たちは永遠のいのちの希望にあふれています。」(Ⅰペテロ1:3LB)

復活は私たちに希望を与えてくれます。

使徒 24章

「数日後、ペリクスはユダヤ人である妻ドルシラを連れて来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスを信じる信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。」(24,25節)

使徒の働きの22章から26章まで裁判の記事が続きます。22章で、パウロは民衆の前で弁明し、23章で、サンヘドリンというイスラエルの宗教的指導者たちを前に弁明します。24章は総督ペリクス、25章では総督フェスト、26章ではアグリッパ王の前で裁判が行われます。裁判の場がパウロにとって福音宣教の場でした。総督ペリクスはパウロから「キリスト・イエスを信じる信仰について」、直接、話を聞きました。しかし、彼は、「恐れを感じ」、「おりを見て」と、信じる機会を逃してしまいました。「おりを見て」いると機会を失います。
今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。