pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

2歴代誌 20章

「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(21,22節)

私たちのこの世の常識では考えられないことがここに記されています。戦争で、兵隊の前に聖歌隊を歩かせるという戦略は聞いたことがありません。しかしこの戦略が、私たちが今、現実に直面している霊的な戦いの中では重要です。霊的な戦いの最前線は賛美です。私たちが賛美を神にささげる時、神の御手が動き、敵をけちらします。ですから、賛美はとても大事なのです。サタンは神への賛美を妨げようとします。ですから、賛美の歌声を神にささげ続けましょう。

「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

2歴代誌 19章

「しかし、あなたには、良いことも幾つか見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、心を定めて常に神を求めて来られました。」」(3節)

 

人は私たちのために十字架にかかり死んでくださったイエス・キリストを信じる信仰によってのみ救われます。善行はそれに何も加えることはありません。しかし神は私たちの良いことを見られています。聖書は言います。

 

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(Ⅰコリント15:58)

 

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(ヘブル6:10)

 

ですから聖書は言います。

 

「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」(ガラテヤ6:10口語訳)

2歴代誌 18章

「すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座に着き、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。」(18節)

神はミカヤが天上で起きている場面を見ることを許されました。神は御座に着き、多くの天使たちがその周りに立っていました。神はアハブ王をどのように倒すか提案を求めました。いくつかの案が出され、最後に一人の天使が出てきて、「偽りを言う霊となり」、アハブに助言を与える預言者を通して、彼を惑わすことを進言します。(預言には注意!)理解しづらい内容ですが、ヨブ記にも似た場面があります。はっきりしていることは、神が御座に座していて、何事も神の許可なしには起きないということです。そして、神が許可される時は意味があるということです。私たち人間にはすべてを理解することはできませんが、神は神であり、御座に座しておられます。私たちはそれでもなお神を信頼することが求められています。
今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう。

2歴代誌 17章

「彼らはユダで教えた。すなわち、主の律法の書を携えて行き、ユダのすべての町々を巡回して、民の間で教えた。」(9節)

ヨシャパテは、偶像を取り除いただけではなく、神のみことばを教えました。国中を巡回し、神の御言葉を人々に教えました。人々の信仰は、神のみことばの教えによって建て上げられていきました。教会の中心的な働きも、聖書のみことばを教えることです。パウロは若いテモテに言いました。

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:2-4新共同訳)

教会は、聖書の教え、健全な教えを、時が良くても悪くても、民の間で教え続ける責任があります。

2歴代誌 16章

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(9節)

主は、今も、あまねく全地を見渡しておられます。主は、ご自身の力をこの地にあらわしたいと願われておられるのです。イエス様がこの地上におられた時に、たくさんの御業をなされたように、今も、私たちの世界に、ご自身の御業をなしたいと願っておられるのです。神様はなぜか、人を用いてご自身の力を現すことを選ばれます。ですから、心がご自分とまったく一つになっている人を探しているのです。神様と心を一つにするためには、へりくだって神のみことばを読む必要があります。神の心を、自分の心とするように、聖書を読む必要があります。少年サムエルが、

『しもべは聞きます。お話しください』(Ⅰサムエル3:10口語訳)

と祈ったように、いつも主のみことばに耳を傾ける姿勢が大切です。

2歴代誌 15章

「彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。」(15節)

LBでは、

「神様を慕い求め、ついに神様と出会うことができたので」

と訳しています。聖書が私たちに教えていることは、私たちが神様を心から求めるならば、私たちは神様に出会うことができるということです。賛美の中で、祈りの中で、また、神のみことばである聖書を読む中で、私たちは生ける神、イエス・キリストと出会うことができます。

「ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示された」。

新約聖書にもこう書あります。

「神様のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神様を求めれば必ず報いられることとを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

主を慕い求めるならば、主はご自身を示されます。

2歴代誌 14章

「アサはその神、主に叫び求めて言った。 『主よ。力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません。私たちの神、主よ。私たちを助けてください。私たちはあなたに拠り頼み、御名によってこの大軍に当たります。主よ。あなたは私たちの神です。人間にすぎない者に、あなたに並ぶようなことはできないようにしてください。』」(11節)

無限に1を足しても、無限に100を足しても変わりはありません。私たちの神は無限の神なので、力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも変わりはありません。大事なのは私たちが無限の神に拠り頼み、そのみ名によって歩んでいくかどうかということです。ですから使徒パウロはこう言いました。

「神様が味方なら、だれが私たちに敵対できるでしょうか。」(ローマ8:31LB)

2歴代誌 13章

「イスラエル人は、このとき征服され、ユダ人は、勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」(18節)

北イスラエル王国は、南ユダ王国をいわゆる挟み撃ちにしました。14節には、

「戦いは前後から迫っていた。」

とあります。まさに、八方ふさがり状態でした。しかし、天は開いていました。彼らが主に叫び求めた時に、神が介入されました。同じように私たちの人生にも、挟み撃ちにされているような、八方ふさがりの状況があります。しかし、天は開いています。私たちも主に叫び求めることができます。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。

「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。」(Ⅱコリント4:8)

「主よ、どんなに行き詰っても、天を見上げ、あなたを呼び求め、あなたに拠り頼んでいくことができますように。」

2歴代誌 12章

「このように、彼がへりくだったとき、主の怒りは彼の身を離れ、彼を徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったからである。」(12節)

聖書はへりくだることの大切さを何度も語っています。使徒ペテロもこう言っています。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Ⅰペテロ5:5)

レハブアム王は、王位が確立し、強くなるに及んで、神から離れていってしまいました。高ぶりは恐ろしいものです。祈らなくても、聖書を読まなくても、教会にいかなくても自分で何とかやっていけると思い始めるとき、人は、ずれていってしまうのだと思います。へりくだって、

「イエス様あなたが必要です。今日もあなたのみことばが必要です。」

と、祈りつつ教会生活を大切にしていくことが大切です。

「ユダにも良いことがあったからである。」

という表現には希望があります。へりくだったとき、良いことがはじまります。

2歴代誌 11章

「実は、レビ人は自分たちの放牧地と所有地を捨てて、ユダとエルサレムに来たのである。ヤロブアムとその子らが、主の祭司としての彼らの職を解き、自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。」(14,15節)

北王国のヤロブアム王は、神が任命した祭司たち、レビ人たちを軽視しました。聖なるもの、神の領域を侵して、自分勝手に判断し、自分の都合のよいように、「自分のために祭司たちを任命し」ました。このような自分勝手な信仰姿勢は、ヤロブアム王のようにどんどんとずれていきます。聖書が私たちに教えていることは、このようなヤロブアム王のように自分勝手に判断するのではなく、神のみことばである聖書に従って判断することが大事だということです。聖書が何と言っているか、聖書を中心とした信仰姿勢が求められているということです。今日は主の日、共に主を礼拝し、主の御言葉に耳を傾けましょう。

※ 本日から、今年のアルファ(キリスト教基礎講座)が始まります!