pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 21章

「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」(11,12節)

イザヤのところにエドムの人々が、アッシリヤの脅威はいつまでかと尋ねにやってきました。イザヤはエドムの人々に、本当にそのことが知りたいのなら、心からもう一度尋ねに来るようにと言いました。神は今も同じようにされることがあります。鎮痛剤程度に神を求めてきても、神はその人が心から求めに来るまで答えを待たれることがあります。聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

スポルジョンは言います。

「それが好きであれ、嫌いであれ、求めることは神の国のルールです。」

熱心に祈り求めましょう。

イザヤ 20章

「人々は、クシュを頼みとし、エジプトを栄えとしていたので、おののき恥じる。」(5節)

何に頼り、何に期待し、何に希望を抱くかということは、私たちの人生にはとても大きな問題です。もし、その頼みとしたものが崩れ去ってしまうなら、私たちは混乱してしまうからです。ですから、私たちは決して揺るがない、確かな方、イエス・キリストを頼みとし、イエス・キリストに希望をもつということが大切になります。聖歌の中にこういうものがあります。

「イエスこそ岩なれ 堅固なる岩なれ 他は砂地なり」(二三六番)
今年は宗教改革五百周年ですが、宗教改革のモットーは

VDMA(Verbum Domini Manet in Aeternum.)

神のみことばは永遠に変わることはありません。

イエス・キリストを頼みとするものは失望することはありません。

イザヤ 19章

「主はエジプト人を打ち、打って彼らをいやされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らをいやされる。」(22節)

LBで今日の箇所をこのように訳しています。

「主はエジプトを打ちのめしたあとで、もう一度建て直すのです。エジプト人が素直に主を信じるので、願いを聞き入れ、すべてを元どおりにします。」

旧約聖書を読んでいると神はイスラエルのことしか関心がないように誤解してしまうことがあります。しかし、神はエジプトが滅びることも望まれていないと言います。聖書にこんな箇所があります。

「主は尋ねます。『わたしが、悪者の死ぬのを見たがっているとでも思うのか。わたしは、彼が悪の道から離れ、正しく生きるようになることしか願っていない。』」(エゼキエル18:23LB)

「神はすべての人が救われて、真理を理解するに至ることを切に望んでおられます。」(2テモテ2:4LB)

イザヤ 18章

「主が私にこう仰せられたからだ。「わたしは静まって、わたしの所からながめよう。照りつける暑さで暑いころ、刈り入れ時の暑いときの露の濃い雲のように。」」(4節)

LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。

「神はエルサレムの神殿から静かに眺めています。心地よい夏の日のように、収穫の秋のすがすがしい朝のように、ゆったりと。しかし、神は手をこまねいているわけではなく」。

私たちは神が沈黙されているように感じることがあります。しかし、神は私たち人間のようにあわてふためく方ではありません。神は神の時に、必ずその御業をなされます。その状況を、神が静かにご覧になっているからと言って、神が手をこまねいているわけではありません。神は神の時に、その御業をなしてくださいます。

イザヤ 17章

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(7,8節)

本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。自らを縛ることはあっても、解放することはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分流の考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。

イザヤ 16章

「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」(5節)

この世界の終りに、イエス・キリストは恵みによってこの世を治められるという預言です。完全な支配は、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことを通して、すでに、イエス・キリストの統治はこの世界に始まっています。死からよみがえられたイエス・キリストは今、天のみ座にあげられ、父なる神の右に座しておられます。「イエスは主」という時、私たちはこのイエス・キリストの統治を認め、告白しているのです。「ダビデの天幕」は旧約で預言されたダビデ契約の成就ということです。

今日は主の日。王の王、主なる主、我らの救い主、イエス・キリストに賛美と礼拝を捧げましょう!

イザヤ 15章

「わたしの心はモアブのために叫ぶ。」(5節)

モアブという国は聖書の中で幾度となく登場します。モアブは、アブラハムの甥のロトの子孫(創世記19:37)です。しかし、イスラエルの民が約束の地に向かう時には、バラムを雇い、呪わせようとしました。(民数記22章)ルツ記のルツは「モアブの女」(ルツ1:4)でした。イザヤ書15章は最初から最後までモアブに対する厳しい宣告が書かれていますので、読んでいると絶望的な気持ちになるかもしれません。しかし、そんなモアブ人ルツの子孫から救い主、イエス・キリストが誕生したことを忘れるべきではありません。マタイの福音書の1章に、アブラハムからイエス・キリストまでの系図が出てきますが、わざわざ『ルツによって』と、記されています。神はすべての人の神であり、モアブも心に留められておられます。暗闇から光へと導きだしてくださる主は、今日も私たちと共におられます。

イザヤ 14章

「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(13,14節)

この箇所は一般的にサタン(ルシファー、悪魔)について言及している箇所だと考えられています。エバを「あなたがたが神のようになり」(創世記3:5)と誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するようになったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。神のようになろうとする欲求は昔も今も変わりません。人間は今も神に対抗できるかのようにバベルの塔を築き上げようとし、その結果、混乱(バベルの意)がますます世界に広がっています。神は神であり、人は神になることはできません。神は絶対者であり、対立できる存在はいません。悪魔の嘘にだまされないように、神を神として認めていくことができますように。

イザヤ 13章

「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。」(1節)

13章は、この頃台頭していたバビロン帝国に対する滅亡への預言が記されています。当時のオリエントにおいての最強と言われた国々に対し、これから起こる破壊と破滅を預言することを、イザヤはどのように受け止めていたのでしょうか。まさに、その「とき」には非常に不可能にみえることを預言として人々に伝えることは、イザヤにとって大きなチャレンジであったと考えることができます。それは、創世記の中でノアが洪水を前にして箱舟を神の命令に従って造ったことと似ているかもしれません。

「見よ。主の日が来る」(9節)

どんなに不可能と思えたとしても、「神がする」と言ったことは必ず実行されることに心を留めたいと思います。聖書の御言葉には「神がする」に満ちています。「見よ。主の日が来る。」真剣に耳を傾けていきたいと思います。

イザヤ 12章

「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(3節)

この箇所は、私たちにとってとても馴染みがあるところです。なぜらな、この節のヘブライ語が「マイム・マイム」という、かつて日本の学校で頻繁に踊られていたフォーク・ダンスの歌詞だからです。マイムとは『水』のこと、そして新約の時代には七日間にわたって行われた仮庵の祭りの最終日に、祭司がギホンの泉から水を汲み、この節を唱えて神殿前にある祭壇に注ぎました。それは降雨を切望するユダヤ人にとって切実な雨乞いの祈りの儀式でした。ヨハネの福音書には、その祭りの最終日にイエス様が大声で人々に語った言葉が記されています。

『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38,39)

イエス様こそ、わたしたちの救いといのちの源泉です。