pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

イザヤ 30章

「彼らは予見者に『見るな。』と言い、先見者にはこう言う。『私たちに正しいことを預言するな。私たちの気に入ることを語り、偽りの預言をせよ。道から離れ、小道からそれ、私たちの前からイスラエルの聖なる方を消せ。』」(10,11節)

終わりの時代には

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、間違った教えにしっぽを振ってついて行くのです。」(?テモテ4:3,4LB)

と言います。私たちは自分好みの話ではなく、聖書の話を求める姿勢が大事です。今日の箇所の民の言葉をLBはこう訳しています。

「ほんとうのことなど、どうでもいい。耳ざわりのいいことだけを話してくれ。うそでもかまなわない。陰気くさいことはまっぴらだ」
今日は主の日。教会は聖書が語られる場所です。

イザヤ 29章

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(16節)

今日の箇所は、私たちが創造主なる神に対してどのように考えるべきかを明確にしてくれる箇所だと思います。神は私たちを造られた神であり、私たちは神に造られた被造物です。神は神であり、人は人です。人が神になることはありません。しかし、人は倒錯を起こして、創造主なる神に対して「神は何も分っていない」などと言っていることがあるのではないでしょうか。創造主なる神はすべてをご存じであり、しかも、私たちを愛しておられます。私たちは神の指紋がついた、神の作品であることを忘れてはいけません。私たちは有限な人間であり、無限の神と対等の存在ではありません。神を神として認めることができますように。

イザヤ 28章

「だから、神である主は、こう仰せられる。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16節)

今日の箇所は、新約聖書で引用されています。

「『見よ。わたしは一つの石(キリスト)を(教会の)尊い土台石とするために選び、遣わした。彼に信頼する者は、決して失望しない。』キリストは、信じる者にとっては何よりも尊い方ですが、キリストを拒む者にとっては、『つまずきの石、妨げの岩』となりました。・・・彼らのつまずきの原因は、神のことばに耳を傾けず、従おうとしないことです」(1ペテロ2:6-8LB)

「試みを経た石」とは、何度も試みを受けた試験済みの石という意味で、信頼できるということです。イエス・キリストが信頼できる石であるということは、歴史を通じて、証明されてきたことでもあります。

イザヤ 27章

「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(6節)

100年ほど前、この預言は夢のような話でした。イスラエルの国はまさに荒野であり、植物とは無縁な土地だったのです。ですから、ありえないという比喩としか理解することはできませんでした。しかし、1900年代のはじめ、ユダヤ人たちはアラブ人たちから荒れた土地を買い、その土地に植物が育つように改良しました。今、イスラエルに行くならば農地を見ることができます。そして、世界でも五本の指に入る果物輸出国となっています。(日本でも、ヤッホ・ルビーと呼ばれるイスラエル産の果物が輸入されています。)神は2700年ほど前に、すでにこのことが起こることを知っておられました。

「やがてイスラエルが根を張り、つぼみをつけ、花を咲かせ、世界をその実で満たす時が来る。」(LB)

神にできないことはありません。神の約束は必ず成し遂げられます。

イザヤ 26章

「いつまでも主に信頼せよ。ヤハ、主は、とこしえの岩だから。」(4節)

信仰とは一時的なものではなく、人生を通して持ち続ける継続的なものです。ですからLBではこのように訳しています。

「どんな時でも、神である主に信頼しなさい。あなたの永遠の力は主のうちにあるからです。」

3節にはこのように記されています。

「志の堅固なものを、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」

「全き平安」と訳された言葉の原文は「シャローム、シャローム」です。最上級の平安という意味です。「ヤハ」は「ヤハウェ」、神の名前です。どんな時でも神を信頼して生きていくならば、尽きない力、最上級の平安の中に生きることができるという約束です。このことを使徒パウロは次のように表現しています。

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)

イザヤ 25章

「あなたは弱っている者のとりで、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。横暴なものたちの息は、壁に吹き付けるあらしのようだからです。」(4節)

宗教改革者マルチン・ルターは、『神はわがやぐら』という有名な讃美歌を作りました。旧約聖書には神が私たちの砦、避けどころであると何度も言います。それは多くの信仰者たちが実際に避けどころである神を体験していたからだと思います。私たちの日々の歩みの中にも嵐のように感じる出来事が起こります。叩きつけるような風に一歩も前へ進むことができないと感じることもあります。そのようなとき、自己憐憫に陥って落ち込み、嘆くこともできますが、聖霊の助けによって「神がわたしたちの砦、避けどころです!」と宣言し、前へ進むこともできます。私たちは、どこに助けを求めているでしょうか。本当の助けは、ただ、生ける神、キリストの中にあります。

イザヤ 24章

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」(23節)

イザヤはやがてヤハウェなる神ご自身が治めるために来られると預言しました。

「シオンの山、エルサレムで王となり」

というのは、ダビデの王国の完成を意味します。神ご自身が王となり、その民を牧される。イエス・キリストはエルサレムで十字架にかかられました。その十字架の上には、

「ユダヤ人の王」

と刻まれました。誰が想像したでしょうか。神はそのひとり子を与えることによって王となられました。子なる神イエス・キリストは、すべての人の罪のために死ぬことによって王となられました。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ついに天の軍勢の主はシオンの御座にのぼり、イスラエルの長老たちの見ている前で、エルサレムを中心に世を治めます。その栄光は、太陽の輝きも月のうるわしさも、色あせてしまうほどです。」

〝「禁断」の豚骨イスラエル魅了〟

ちょっと長いタイトルですが、これ、今月23日の朝日新聞夕刊の一面記事の見出しです。非常においしそうな二種類のラーメンも掲載され、宗教的にはタブーでも、それを気にしない世俗派のイスラエル人に大人気!という内容でした。ユダヤ教もイスラム教も豚肉を食すことは禁止していますから、鶏がらスープのラーメンでなく豚骨スープのラーメンがイスラエルに上陸したことにとても驚きました。
イスラエルの地から見れば地の果てにある日本に住む私たちにまでイエス・キリストの福音が届けられ、キリストを信じる者たちが集い、礼拝を捧げていることに神様の御業の素晴らしさを感じます。このイスラエル人のラーメン屋店主は日本で豚骨ラーメンを食べ「味と香りに一瞬で恋に落ちた。本物のラーメンを食べてもらいたい」と語っていました。素晴らしいものをどうにかして伝えたい。その思いはきっと初代教会の人も同じだったのだと思います。命をかけてイエス様の福音を伝えてくださった信仰の先輩に感謝しつつ。(小山晶子牧師夫人)

イザヤ 23章

「万軍の主がそれを計り、すべての麗しい誇りを汚し、すべて世界で最も尊ばれている者を卑しめられた。」(9節)

ツロが滅んだ理由を聖書はこう言っています。

「天の軍勢に命令を下す主が、その思い上がりをたたきのめし、人間の偉大さなど取るに足りないことを示そうと、このようにしたのです。」(LB)

ヤコブ4:6にも、こうあります。

「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」

傲慢(高ぶり)は主が忌み嫌うものだと聖書は繰り返し教えます。箴言16:18(LB)には、こうあります。

「プライドが高すぎると身を滅ぼし、高慢は失敗を招きます。」

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(Ⅰペテロ5:6)

今日は主の日。へりくだり主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 22章

「さあ、宮廷をつかさどるあの執事シェブナのところに行け。あなたは自分のために、ここに墓を掘ったが、ここはあなたに何のかかわりがあるのか。ここはあなたのだれにかかわりがあるのか。高い所に自分の墓を掘り、岩に自分の住まいを刻んで。」(15,16節)

執事シェブナとは、ヒゼキヤ王の時代に宮廷を管理していた人物です。神の怒りに対して悔い改めることをせず、宮廷の管理者と言う立場にありながらただ自分の楽しみのために日々を過ごしていた様子が記されています。そして、シェブナが危機感を持つこともなく自分のためにエルサレムの墓群のなかでも一等地に自らの墓を用意したことに対して、神は厳しく語っています。興味深いことにごく最近、シェブナのものと思われる墓が発見されました。私たちの心の中にも、時々自己中心なシェブナが存在します。他者に対して心を向けることは大切です。