pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

ルカ 6:37-7:10

「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。」(6:47)

ある神父がこんなことを言っていました。

「キリスト教に出会っても、キリストに出会っていない人もいる。

キリスト教の中にいても、キリストに出会ったことのない人たちの集まりにもなりうる。」

「それを行なう」ということにだけ焦点を合わせてしまうならば、そうなる危険があります。キリスト教文化は広めても、キリストがいないということがあり得ます。イエス様はまず、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き」とおっしゃられました。自分の理想をキリストに押し付けるのではなく、キリストのもとに行き、キリストに聴く姿勢が必要です。イエス・キリストとの個人的、人格的な関係が何よりもまず必要です。

ルカ 6:12-36

「このころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。」(6:12)

イエス様は山に登り、神に祈りながら弟子たちを選ばれました。イエス様が、選ばれた人々は、はっきりいって、それにふさわしいとは、決して呼べない人たちでした。「イエス様、あなたは確かですか?本当に、祈られて決められたのですか?」と言いたいようなメンバーでした。実際、彼らは、イエス様を見捨てて、逃げてしまったような人たちでした、人生の中で、私たちはいろいろな決断に迫られることがあります。しかし、祈って、祈って、祈って決断したことであるのならば、万事を益としてくださると約束された神に信頼して安らぐことができます。商品ならばクーリング・オフができますが、人生にはできないことが多々あります。イエス様がそうであったように、大事な決断をする前には、「祈って、祈って、祈って決断する」という方法は、聖書が進めている決断方法です。

ルカ 5:33-6:11

「イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。」(6:3)

「読まなかったのですか」という表現が意味していることは、「あなたがたの聖書解釈は間違っている」ということです。安息日というのは、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと、禁止事項で人々を縛るために与えたわけではないということです。ここで、ダビデが例として出てきているところにも意味があります。神はダビデを

「わたしの心にかなう者、わたしの意志に完全に従う者だ」(使徒13:22LB)

とおっしゃられました。つまりダビデは神の真意を理解していたから、律法に縛られることなく行動することができたというのです。

今日は主の日。神の真意を理解できるように、共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 5:17-32

「ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(5:17)

イエス・キリストがこの地上でなされた働きの一つは、

「主の御力をもって、病気を直しておられた」

ということです。ルカの福音書を書いた、ルカと言う人は、お医者さんでした。(コロサイ4:14参照)ですから、特に、キリストが病気を癒されたということに興味があったのだと思われます。興味深いことに一般の人よりも医者の方が「神のいやし」に興味があるようです。いやしの伝道集会に、有名な病院の医者の方がおられてびっくりしたことがあります。しかし考えてみますと、日夜「病気を治す」ことに心を注いでいるのですから、興味があって当然なのかもしれません。神は今も、いろいろな方法で病気を癒されます。

ルカ4:38-5:16

「するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」(5:5,6)

ペテロは何もしなかったわけではありません。夜通し働きました。だから、もう無理だと思ったのです。しかしペテロは、自分の考え方を優先しないで、

「でもおことばどおり」

と、イエス様に従い行動したときに、神の栄光を見ました。私たちはやらない理由を考えることは得意です。ペテロが、「プロの私たちが、夜通し働いてダメだったのですから、無理ですよ」と切り捨てたとしても、私たちは当然だと思います。「でも」、ペテロが、イエス様の「おことばどおり」網を下ろしたから、神の力を体験することができました。私たちは「でもおことばどおり」という信仰が必要です。

ルカ4:14-37

「イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」」(4:21)

4章18,19節はイエス様のこの地上における目的宣言文と言われます。これらの目的がイエス様が来られたことによって実現したと言われました。5つの目的があります。

第一番目は、「貧しい人々に福音を伝える」ため。

第二番目は、「捕らわれ人に赦免を告げる」ため。

第三番目は、「盲人に目の開かれることを告げる」ため。

第四番目は、「しいたげられている人々を自由にする」ため。

第五番目は、「主の恵みの年を告げ知らせる」ため。

イエス・キリストは、今も、聖霊なる神様の力をイエス・キリストを信じる者たちに注いでくださって、一人でも多くの人が、神に立ち返ることができるように、この恵みの年を宣言して欲しいと願っておられます。

ルカ3:23-4:13

「さて、聖霊に満ちたイエスは、ヨルダンから帰られた。そして御霊に導かれて荒野におり」(4:1)

これはとても不可思議な箇所です。

「さあ、今、私についてきなさい。」

「どこに行くんですか?」

「荒野に行きます。」

「荒野で何があるんですか?」

「あなたは、悪魔に誘惑されるんですよ。」

「あなたは、わたしを愛してるといったじゃないですか。」

「そうですよ。」

「わたしを喜ぶといったじゃないですか。」

「そうですよ。」

「それでは、わたしはどこに行くんですか?」

「悪魔に誘惑されるために、荒野に行くんですよ。」

「わたしが、何か悪いことしましたか?」

「いいえ、わたしはあなたを喜んでいますよ。」

「で、どこに連れて行ってくださるのですか?」

「荒野ですよ。」

「???」

神はあえて愛する者が試みに会うことを許されます。それは、神は私たちの歩みを気にかけておられるがゆえに、

「荒野で恵みを見出す。」(エレミヤ31:2新改訳二〇一七)

という世界を体験させたいからです。

ルカ3:1-22

「そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。」(3:4)

私たちにとって一番大切なことは、主の道を用意することだと聖書は言います。私の道ではなく、誰かの道でもなく、「主の道」です。この箇所はイザヤ書の引用だと書いてありますが、イザヤ書40:3にこう書いてあります。

「主が通られる道を準備せよ。荒野に、平らでまっすぐな道を、主のために準備せよ。」(LB)

「主の道」は、明らかに神がお通りになる道のことです。神がお通りにまる道は、バプテスマのヨハネの姿を見るならば、イエス・キリストを指し示すことであることが分かります。ヨハネは言いました。

「私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。」(16節)

イエス・キリストを指し示す姿勢が主の道を用意します。

ルカ2:41-52

「さて、イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに行った。」(2:41)

イエス様と両親は、毎年、過ぎ越しの祭りをエルサレムで守りました。過ぎ越しの祭りは、旧約聖書の出エジプトの物語を語ることが中心です。エルサレムでは毎年、過ぎ越しの祭りのために多くの小羊が屠られました。毎年、イエス様はどのような思いでエルサレムに行かれたのでしょうか?というのも、イエス様は、まさに、私たちの過ぎ越しの小羊として、エルサレムで十字架で死なれたからです。幼いイエス様がそのことを知っていたとしたら、どんな思いだったのでしょうか?一つはっきり言えることは、私たちが過ぎ越しの祭りを理解するならば、イエス様の十字架の意味をさらに理解することができるということです。過ぎ越しの祭りの時に、イエス様は十字架にかかられました。すべては、イエス・キリストを信じる者が救われるため、裁きを過ぎ越すためでした。

ルカ2:21-40

「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。」(2:21)

「イエス」という名の説明は、マタイの福音書に出てきます。

「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」(マタイ1:21新改訳2017)

「主は救う」という意味で、ヨシュアやホセアという名も異型名で、天使がつけた名ですが、一般的な名でした。誰もが主の救いを待ち望んでいました。しかし、ユダヤ人が描いていた救いは、異教徒のローマ帝国からの救いでした。人々は、ローマ帝国の支配を終わらせることができる軍事的救い主を待ち望んでいました。しかし、イエス様がもたらした救いとは、罪の力、暗闇の力、死の力からの救いでした。イエス・キリストは、十字架の御業によって罪の支配を終わらせ、神の国をもたらしました。今日は主の日。救い主イエス・キリストの御名をあがめ、共に礼拝を捧げましょう!