pastoreiji の紹介

キリスト教会の牧師をさせていただいています。アメリカのバイブル・カレッジを卒業。アメリカではカルバリーチャペルというグループの教会で同時通訳の奉仕をさせていただいていました。教会の牧師として14年目の時、サバティカルとして立教大学大学院、キリスト教学研究科で博士課程前期課程をさせていただきました。新約学(パウロ研究)をライフワークとして取り組んでいます。

アウェーな感じ

沖縄での数回のコンサートを控え、中部北谷にある宿泊施設に滞在しています。海に面したかなり大きな施設なのですが、宿泊客のほとんどがアジア系の外国の方々。エレベーターでも食堂でも日本語が聞こえてきません。まるで外国に来たかのようで少々戸惑っています。そんな中先ほど朝食帰りにエレベーターに乗ったところ、スーパーマンの格好をした2歳くらいの男の子とお母さんと一緒になりました。その子の格好があまりにも似合ってたので思わず日本語で「スパーマン、かっこいいね!」と声を掛けたらお母さんに「うわー、日本人の方に会えてホッとします!ここ、アウェー感半端ないですよね!」と感激されてしまいました。そのときふと、思いました。天国ではこういう状況はいやだな、と。言葉が通じないと言うことはないと思いますが、「天国で久しぶりに日本の方に会いました!」なんて言われたら悲しすぎます。そんなことにならないように、イエス様を伝えてきます。与えられた使命を全うできるように祈り、支えていただければ幸いです。 (小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 11:45-12:11

「そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。」(11:47)

当時の宗教指導者の悲劇は、神よりも自分たちが正しいと考えていたことでした。だから祈るために集まるのではなく、議論するために議会を招集し、神のみこころよりも自分たちの意見を主張しました。その状況は次のことばでも分かります。

「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」(48節)

すべての人がイエス・キリストを信じるようになるというのが、旧約聖書が指し示していたことなのに、彼らはその妨げとなっていたのです。しかも、その批判的な態度を正当化していたのです。私たちの役割はすべての人がキリストを信じるようになることです。

今日は主の日でありペンテコステの日。主に礼拝を捧げましょう!

※ 本日のSSCの第三礼拝はお休みです

ヨハネ 11:1-44

「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」」(11:40)

弟のラザロが死に、墓に葬られて四日たっていました。それで、イエス様が墓石をとりのけるように言われた時、マルタは躊躇し、イエス様にもう臭くなっていると進言します。マルタの応答はとても常識的だったと思います。しかし、そんな常識的な応答をイエス様は一蹴します。

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

聖書は、

「信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1新改訳二〇一七)

と言います。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(同6節)

と言います。

ヨハネ 10:22-42

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(10:27)

イエス様の声を聞き分けるためには、常にイエス様の声を聞き続ける必要があります。そのためには、日々、聖書のみことばに親しむ必要があります。聖書は神のみことばであり、イエス様は聖書に矛盾することは語られません。おどろくことは、イエス様は私たちのことを知っておられるということです。3節では、

「彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。」

とあります。私たちの名前も覚えてくださっていて、その名で呼んでくださると言います。イエス様のものであるかどうかは、イエス様についていくかどうかで分かります。たとえ、理解できなくても、イエス様を信頼してついて行く、それがイエス様の羊としての生き方です。

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23:1)

と告白できる者は幸いです。

※ 本日のSSCの祈祷会はお休みです。

ヨハネ 9:35-10:21

「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」(10:10)

盗人とは、サタン、悪魔のことです。悪魔の目的は、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。人々をだまし、破壊しようとします。パウロは言います。

「もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。」(2コリント2:10,11)

憎しみはサタンの業です。愛と赦しを妨げようとするのはサタンの策略です。なぜなら、イエス様が来られた目的は、私たちがいのちを得るためだからです。天国に行けるというだけでなく、今、この地上でも、豊かな人生を歩むためです。

ヨハネ 9:1-34

「イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」(9:3)

病気の原因を、何でも罪や悪霊のせいにするのは聖書的ではありません。イエス様は、

「神のわざが現れるため」

と言われたからです。生まれたときから目の見ないこの人は、イエス様によっていやされました。彼はただこう証します。

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(ヨハネ9:25)

聖書の神は癒し主であり、今も病を癒されます。キリストのからだである教会は、ですから、今も病気の癒しのために祈り続ける必要があります。弟子たちのように、「だれが罪を犯したからですか」と犯人捜しをするよりも、イエス様のように、「神のわざが現れるため」と祈る必要があります。

ヨハネ 8:31-59

「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。」(8:47)

神からかどうかは、神のことばに耳を傾けているかどうかで分かるとイエス様は言われます。自分中心か、神中心かで分かるということだと思います。日々、謙遜に神のみことばに耳を傾け、神のみことばに聞き従おうとしていることこそ、神からであることの証明だと言います。また、神はこう言われます。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:27)

神の霊、聖霊が授けられている証拠は、神の御言葉に聞き従って歩んでいるかどうかです。神のことば、聖書への飢え渇きは、神からであることの証明です。

ヨハネ 8:12-30

「そこで、イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げたとき、そのとき、わたしが『わたしはある』であること、また、わたしが自分からは何もせず、父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していたことを、あなたがたは知るようになります。」(8:28節新改訳二〇一七)

「あなたがたが人の子を上げたとき」とは、イエス様が十字架にかかられた時のことを指していると思われます。ただ、私たちがイエス様の御名を高く掲げる時とも考えられます。私たちがイエス様の御名をあがめ、讃えることを通して、イエス様こそまことの神であり、救い主であることを人々は知ることができるからです。そのことをよく理解していた使徒パウロはこう言います。

「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(Ⅰコリント2:2)

イエス様の御名だけがあがめられますように。

おかあさん、ありがとう。

お母さんがいない人は、この世に一人もいません。全ての人にお母さんがいて、私たちは今ここに存在しています。今日は母の日。もうこの地上にお母さんがいないという方はたくさんおられると思いますが、命をかけてこの世に私たちを生み出してくださった「おかあさん」に感謝することはできると思います。
昨日次男が十七歳の誕生日を迎えました。母親としては次男が神様の導きを求め、御心の真ん中を歩む人生であるようにと願ってやみません。イエス様とおかあさんのマリヤとのやり取りは、聖書の中にいくつも出てきます。十二歳のイエス様が行方不明になった時、カナの婚礼の時、イエス様を連れ戻そうとした時、イエス様が十字架にかかられた時も。マリヤは息子でありメシヤであるイエス様のことをどのような思いで見守ってきたのかな?と思うことがあります。お母さんは子どもの幸せを願うもの。人間的に見ればマリヤは悲劇の母、ということでしょう。でもどのような困難も痛みも共に乗り越えた幸いな人生だったとも思うのです。(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 7:45-8:11

「けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」」(8:7)

善悪を知る木の実を食べたアダムとエバの子孫である私たちは、自分の善悪で人を裁こうとします。自分があたかも神のように、絶対的正義を持っているかの如く、他者を責め立てようとします。しかし、神以外に正しい方はいません。神の御子、イエス様は驚くことに、この姦淫の現場で捉えられた女性にこう言いました。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)

イエス様は罪のない者でしたが、私たちの罪をその身に負い、十字架にかかり死んでくださいました。イエス様は石を投げるよりもその罪を身代わりに背負ってくださいました。
今日は主の日であり母の日。すべての母に感謝し、主に礼拝を捧げましょう!