1列王記 22:1-12

「イスラエルの王はヨシャファテに答えた。「ほかにもう一人、主に伺うことのできる者がいます。しかし、私は彼を憎んでいます。彼は私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言するからです。イムラの子ミカヤです。」ヨシャファテは言った。「王よ、そういうふうには言わないでください。」」(22:8)

アハブ王は約400人の預言者を集めましたが、自分について良いことを言ってくれる人たちを集めたにすぎませんでした。

そのことに気がついたヨシャファテ王は言います。

「ここには神の預言者がいないのですか。神の預言者にも聞いてみたいのです」(7節LB)

聖書は警告します。

「人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、まちがった教えにしっぽを振ってついて行くのです。」(2テモテ4:3,4)

1列王記 21:17-29

「あなたは、アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間はわざわいを下さない。」(21:29)

神は預言者エリヤを遣わしてアハブ王一族に対する厳粛な裁きを宣告します。

「王はエリヤのことばを聞くと、上着を引き裂き、ぼろをまとい、断食をし、荒布の上に伏して、打ちひしがれていました。」(27節LB)

アハブ王はエリヤに「わが敵よ」(20節)と言いましたが、エリヤの言葉のおかげで、アハブ王は悔い改めることができ、わざわいは延期されました。

私たちをへりくだらせ、神に立ち返らせてくれる存在は敵とは呼べません。

神は誰も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めることを願っておられます。

神は言われます。

「わたしは、あなたがたが死ぬことを喜ばない。悔い改めなさい。悔い改めて、生きるのだ。」神である主がこう語るのです。」(エゼキエル18:32LB)

「救急搬送されました」

穏やかでないこのタイトル。

先週火曜日の出来事です。

夜9時を少し回った頃だったと思います。

私の携帯電話が突然なり始めました。

見ると発信元は高砂西部病院。

なぜこの病院から電話が??

父に何かあったのか?などなど電話を取るまでの2秒ほどの間に様々な疑問が頭の中を駆け巡りました。

「こちら高砂西部病院です。先ほど小山嗣音さんが怪我をしてこちらに救急搬送されました。どなたか病院まで来れる方はいらっしゃいますか?」

電話を持つ手が震えました、、、。

結果としては大事には至らず、次の日には退院することができました。

ことの顛末はこうです。

夜野菜を買いに行こうと自転車で近くのスーパーに行った嗣音。

いつも通る広い道は車の往来やスピードが速いので、なかの道を通って教会に戻ろうとしたのですが暗かったこともあり、道だと思って進んだ場所がなんと用水路。

で、そのまま自転車ごと落ちてしまったのだそうです。

そこにたまたま居合わせたドライバーが救急車を呼んで下さったとのこと。

骨折や縫うほどの怪我もありません。

神様の守りの中でこの程度で済んだのだと思いました。

(小山晶子牧師婦人)

1列王記 21:1-16

「ナボテはアハブに言った。「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲るなど、主にかけてあり得ないことです。」(21:3)

アハブ王は宮殿の側にあったナボテのぶどう畑を自分のものにしようと交渉します。

しかし、ナボテは神の律法に従うがゆえにアハブ王の申し出を断ります。

聖書は言います。

「土地はわたしのものだから、それを永久に売り渡してはならない。あなたがたは任されている者にすぎないのだから。土地を売るときは、いつでも買い戻せることを条件にしなければならない。」(レビ25:23,24LB)

アハブ王は神を恐れなかったがゆえに神の御言葉も軽んじました。

フェニキア人の王妃イゼベルはアハブ王がどうして王権を行使しないか理解できなかったのだと思われます。

彼女はナボテを偽りの罪で殺し、アハブ王がその土地を奪い取ることができるようにします。

神への恐れと神の御言葉を重んじることは正比例します。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1列王記 20:35-43

「イスラエルの王は不機嫌になり、激しく怒って自分の宮殿に戻って行き、サマリアに着いた。」(20:43)

イスラエルがアラムの軍隊を打ち破ることができたのは、神の御業でした

。しかし、アハブ王はあたかも自分の力であるかのごとく振る舞い、神のみこころを求めることなく、ベン・ハダドと契約を結んで去らせてしまいました。

アッシリアの脅威に対抗するためには、ベン・ハダドと協力する方が有益だと考えたのだと思われます。

ですから、このことを指摘されたアハブ王は悔い改めるどころか、不機嫌になり、激しく怒ったと言います。

自分の計画の方が、神のご計画より優れていると考えたのだと思います。

神を信頼するよりも、自分のやり方の方が優れていると考えたのだと思います。

しかし、神に従うことよりも大事なことがあるのでしょうか。

不機嫌になったり、腹を立てたりするのではなく、へりくだり、悔い改めることができますように。

1列王記 20:26-34

「ときに、一人の神の人が近づいて来て、イスラエルの王に言った。「主はこう言われる。『アラム人が、主は山の神であって低地の神ではない、と言っているので、わたしはこの大いなる軍勢をすべてあなたの手に渡す。そうしてあなたがたは、わたしこそ主であることを知る。』」(20:28)

預言者が預言していたように、アラムの大軍が再びイスラエルに進軍してきました。

イスラエル側も準備をしていましたが、「アフェクを埋め尽くしているシリヤの大軍に比べて、イスラエル軍は二つの小さなやぎの群れのようにしか見えませんでした。」(27節LB)

しかし、神にできないことはありません。

無名な預言者の言葉を握り戦ったイスラエル軍は大勝利を収めます。

アラム軍の上に「城壁が崩れ落ちた」(30節)という内容は、明らかに神のご介入です。

神は神であり、「山の神であって低地の神ではない」という自分勝手な解釈は身の破滅となります。

1列王記 20:13-25

「ちょうどそのころ、一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう言われる。『あなたは、この大いなる軍勢を見たか。見よ、わたしは今日、これをあなたの手に引き渡す。こうしてあなたは、わたしこそ主であることを知る。』」(20:13)

聖書が私たちに繰り返し語っているメッセージはこれです。

「「神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」のです。」(1ペテロ5:5)

この時、アハブ王がへりくだっていたかは分かりませんが、明らかに、ベン・ハダドは高ぶっていました。

しかも、彼は「酒を飲んで酔っていた。」(16節)と言います。

これに対し、無名な預言者の言葉にアハブ王は聞き従います。

その結果、イスラエルはアラムの軍隊を打ち破ります。

一人の預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った

という事実は、神の憐れみの深さを感じます。

神は罪に罪を重ねるイスラエルの民さえも顧みてくださる恵み深いお方です。

1列王記 20:1-12

「イスラエルの王は国のすべての長老たちを呼び寄せて言った。「あの男が、こんなにひどいことを要求しているのを知ってほしい。」(20:7)

20章に出てくるベン・ハダドは、15章に出てくるベン・ハダドの子です。

彼はイスラエルの首都であるサマリアを包囲しました。

アハブ王は神に助けを求めることなく、ベン・ハダドの屈辱的な要求通りにすると回答します。

ところがベン・ハダドは、アハブ王の回答に満足することはなく、サマリアで略奪することを告げます。

アハブ王はそれでも神に祈ることはなく、長老たちを呼んで会議し、その結論をベン・ハダドに告げます。

事態は好転することなく、問題は深刻化します。

聖書は言います。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

私たちが求められていることは、まず、主の御名を呼び求めることです。

1列王記 19:11-21

「しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。」(19:11,12)

風、地震、火といった劇的に神を体験する人がおられます。

しかし多くの場合、そのような刺激的な体験を求めていても、その中に主はおられなかったということがありえます。

エリヤはその劇的な出来事が過ぎた後、「かすかな細い声」を聞いた時、その中に神がおられることを体験しました。

神は今も生きておられ、私たちに語られているのに、それが「かすかな細い声」なので私たちは聞き逃してしまうことがあります。

「かすかな細い声」という言葉は訳すことが難しくて、直訳すると「サウンド・オブ・サイレンス」となります。

沈黙と声は矛盾するので、ユージーン・ピーターソンは声というよりは「息」と言います。

『神の息』は私たちを回復させます。

1列王記 19:1-10

「主の使いがもう一度戻って来て彼に触れ、「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と言った。」(19:7)

預言者エリヤはアハブ王を恐れませんでしたが、王女イゼベルの脅迫に恐れ、逃亡し、意気消沈して死さえ求めました。

エリヤは孤独を感じ、絶望を感じ、行き詰まりを感じました。

神はそんなエリヤを叱咤激励するどころか、御使いを送って、彼を起こして、彼に食べ物を与え、休みを与えました。

確かにお腹が空いていたり、睡眠不足だったりすると私たちは否定的になる傾向があります。

私たちが落ち込んでいるのは、霊的な問題というよりも、お腹が空いているから、もしくは、睡眠不足だからということも考えられます。

ちゃんとした食事をすれば、気持ちが上向くことがあります。

ちゃんと睡眠をとるだけで、前向きになれるようなことがあります。

もちろん、霊の糧、聖書のみことばをいただくことは大事なことです。

同時に、肉の糧も大事です。