1ペテロ 3:13-22

「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(3:15)

「私の希望」と「キリストを主とし」、自分にとって特別な存在とすることは大事です。

しかし、ペテロは「私の希望」ではなく、「私たちの希望」だと記しました。

私たちのうちにある希望」を証するためには、この「私たち」の部分を理解する必要があります。

信仰は個人的なものだから、一人で聖書を読み、祈っていればいいという話ではありません。

ぶつかることもあると思いますが、イエス様を中心にして一緒に集まり、一緒に祈り、一緒に賛美し、一緒に聖書を読み、一緒にこの世界に神の御国を現わしていく、それが「私たちのうちにある希望」を証するということです。

今、世界では、歴史上もっとも急速に教会は成長しています。

そのような世界規模の「神の民」の「希望」をもっているのです。

1ペテロ 3:1-12

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(3:9)

神はイスラエルの民に言われました。

「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」(出エジプト19:4-6)

「祭司の王国」は、主なる神が治める王国の祭司となると言うことです。

主なる神への捧げ物を世界の民に代わって捧げるという意味があると同時に、主なる神の祝福を取り次ぐものとなるという意味があります。

世界を祝福する神の祝福を、その代理として諸国民に取り次ぐ存在となるという意味です。

しかし、イスラエルの民はこの使命を見失ってしまいました。

イエス・キリストはユダヤ人の王として十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえることによって、この使命を全うされ、イエス・キリストを信じる者たちに、この使命を与えられました。

私たちは、「祝福を受け継ぐために召されたのです」。

1ペテロ 2:11-25

「このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」(2:21)

キリスト者の模範はキリストです。

神のひとり子は、人となって、私たちに模範を残されました。

具体的に、このように記されています。

「キリストは一度も、罪を犯したり、偽りを語ったりなさいませんでした。侮辱されても、苦しめられても報復をせず、公平にさばかれる神にご自分をお任せになりました。」(22,23節LB)

私たちはこのような生き方を自発的に選ぶキリスト者の自由があります。

聖書は言います。

「あなたがたは、この世から解放された自由人です。しかし、それを好き勝手なことをするためにではなく、ただ神に従うことに用いなさい。」(16節LB)

イエス様は神のひとり子であり、自由があり、力もありました。

しかし、私たちのために苦しみを受け、模範を残されました。

1ペテロ 1:22-2:10

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」(2:9)

私たちが、真剣に神のみことばに自分の思いを刷新しているならば、自分が「王である祭司」であることを自覚しているのならば、聖霊によって、そのように日々行動し、習慣化していくことが大事です。

日々聖書を読み、聖霊によって、神のみことばに生きることを習慣化する中で、神のみことばに生きることが品性として、第二の天性として身につくならば、その時が来た時、そのように行動している自分を見ることになります。

日々、聖書のみことばを読み、みことばに生き、みことばを習慣化する中で、私たちの品性、キャラクターは刷新され、試みの日に、それはあらわにされます。

欧州万年草

教会の周りに咲いていた黄色い花の正体が判明しました!

欧州万年草(オウシュウマンネングサ)と言うそうです。

ベンケイソウ科マンネングサ属、寒冷地でも放任で咲くそうです。

なんてありがたい。

ヨーロッパに自生する多年生植物がなぜこんなに教会の周りに、まるで植えたかのように咲いているのかは謎です。

天使が植えてくれたのでしょうか?

去年までは全く気づかなかったので、ますます不思議。

黄色い教会の壁に色合いがぴったりで見るたびに嬉しくなってしまいます。

今年は薔薇も沢山咲いて良い香りがしばらく続いていましたし、車道側の花壇の花も隙間がないほど咲いていて何度も写真を撮りました。

南高梅の木も立派な実が鈴なりで収穫が待ち遠しいです。

唯一残念なのはアーモンドの木。

どうやら虫が入ってしまったようで枯れてしまいました。

また是非トライしたいと思います。

人間が成長や変化を楽しむことができることも神様の恵みなのですね。

今日で献堂22年。

この教会も様々なシーズンを通りながら成長していることを感謝します。

これからも主の御手の中で育まれていきますように、祈ります。

(小山晶子牧師婦人)

1ペテロ 1:10-21

「ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(1:18,19)

イエス・キリストの十字架の御業は神が身代金を払ってくださったと言う意味があります。

当時のギリシャ・ローマ社会は、戦争捕虜が奴隷として売られる社会でした。

彼らが解放され、自由になるためには、身代金が必要でした。

人は、最初の人アダムとエバが神に逆らい、罪を犯してから、罪の奴隷となってしまいました。

罪の奴隷、罪の支配から解放されるためには、自由にされるためには、身代金が必要でした。

その値は「罪の報酬は死」(ローマ6:23)でした。

イエス・キリストの十字架の死は、私たちのためにその報酬を支払い、私たちを罪の奴隷から買い戻す、贖うと言う意味がありました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1ペテロ 1:1-9

「父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。」(1:3)

キリスト者とは何かがこの挨拶に込められています。

「父なる神は、ずっと昔からあなたがたを選び、ご自分の子どもにしようと決めておられました。そして、聖霊が働いて、あなたがたの心はイエス・キリストの血によってきよめられ、神に喜ばれる者へと変わったのです。どうか、神があなたがたを祝福し、すべての不安と恐れから解放してくださいますように。」(LB)

聖書が語る私が私です。

社会的地位などこの世が張るレッテルに縛られないように気をつける必要があります。

キリスト者が選ばれた理由は、新しい世界の道標となるためです。

イエス・キリストの十字架と復活によって、新しい世界はすでにはじまりました。

イエス・キリストが再び来られる時に完成します。

それまで、キリスト者は神の御心をこの地に現す道標なのです。

1列王記 22:41-53

「彼は、父アサの時代にまだ残っていた神殿男娼をこの国から除き去った。」(22:46)

エルサレム神殿に神殿男娼がいたということは驚く内容です。

ソロモン王が祈りの家として神殿を建てた時にはいませんでした。

ソロモン王の子レハブアム王の時代に、

「主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、すべての忌み嫌うべき慣わしをまねて行っていた」(14:24)

とあります。

神を恐れず、神の御言葉を守らない人たちが、神が忌み嫌う異教の習慣を抵抗なく取り入れてしまったのです。

私たちは神を恐れ、神の御言葉を学ぶ必要があります。

そして、神が忌み嫌うものがあるならば、それを捨て去る必要があります。

聖書は言います。

「わたしの名で呼ばれているわたしの民が、自らへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求めてその悪の道から立ち返るなら、わたしは親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地を癒やす。」(2歴7:14)

1列王記 22:29-40

「戦車隊長たちはヨシャファテを見つけたとき、「きっと、あれがイスラエルの王に違いない」と思ったので、彼の方に向きを変え、戦おうとした。ヨシャファテは助けを叫び求めた。戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知り、彼を追うことをやめて引き返した。」(22:32,33)

アハブ王は預言者ミカヤの言葉に耳を傾けず、偽預言者たちの言葉に騙されて戦いに行きました。

ただ、ミカヤの言葉を意識したのか変装して行きました。

アラムの王はアハブ王だけを狙うように指示していました。

そのため、命拾いしたように見えました。

ところが、「何気なく」放った矢がアハブ王に命中します。

一方、王服を着ていたヨシャファテ王は狙われました。

しかし、「助けを叫び求めた」のを見て、アハブ王ではないことを知ったと言います。

ヨシャファテ王は、神に助けを叫び求めたのだと思います。

神に祈り求める謙遜さがアハブ王に欠けていたと敵さえも知っていたのです。

1列王記 22:13-28

「ケナアナの子ゼデキヤが近寄って来て、ミカヤの頬を殴りつけて言った。「どのようにして、主の霊が私を離れ、おまえに語ったというのか。」」(22:24)

四百人対一人。

しかし、多数の意見が必ずしも正しいとは限りません。

「偽りを言う霊」に動かされていると言われたゼデキヤは怒りに任せて預言者ミカヤを殴りつけました。

しかし、預言者ミカヤはゼデキヤに殴り返すことすらしませんでした。

なぜなら、どちらが神からの言葉かがわかる時が来ると知っていたからです。

神の霊によって神の言葉を語っているならば、ゼデキヤのように怒りに任せて殴りつけるようなことはしません。

なぜなら、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制だからです。