ヘブル 9:16-28

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(9:27,28)

聖書は言います。

「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23共)

キリストは、私たちの罪のために、「罪が支払う報酬」を払ってくださいました。そして、キリストは死に勝利され、復活されました。そして、再びこの世の終わりに、この地に来られます。この世全体の終わりが来なくても、すべての人には、個人的なこの世の終わりが存在します。人は死亡率が一〇〇%、無視できません。聖書はさらに、その後、神の御座の前に立つことも定まっていると言います。しかし、キリストを救い主として信じているのならば、その日を恐れる必要はありません。

ヘブル 9:1-15

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(9:14)

血によって象徴される動物のいけにえは、私たちの身代わりに死をもっていのちを与える神のあがないのしるしでした。罪の汚れからきよめ、生ける神を礼拝する者としました。キリストの十字架の死も同じように、キリストを信じる者の罪をあがない、きよめ、生ける神を礼拝する者とすると言います。キリストの十字架の御業は動物のいけにえよりも完全です。

「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(12節)

動物のいけにえとは違い、キリストの贖いは「ただ一度」で「成し遂げられた」のです。

「キリストの血は、どれほど確実に私たちの心と生活を変えることでしょう。」(LB)

ヘブル 8:1-13

「それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(8:10)

この箇所はエレミヤ31章の引用です。

「これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである―主のことば―。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(33節新改訳二〇一七)

この新しい契約の実現は、聖霊を授けることでした。

「わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。」(エゼキエル36:27)

まさに、これがペンテコステの日に起きた出来事でした。今、イエス・キリストを信じる者の内には聖霊が授けられていて、聖霊が神の御言葉に従って歩むように私たちを導かれています。

ヘブル 7:11-28

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(7:24,25)

新約聖書の中心的なメッセージは、イエス・キリストは、私たちのために十字架の上で死に、葬られ、三日目に死の力を打ち破ってよみがえられ、今も生きておられるということです。イエス・キリストは永遠に存在される神ですから、イエス・キリストによって父なる神に近づく人々を完全に救うことができます。キリストが届くことができない人、また場所はどこにもありません。しかも、キリストは天において今、私たちためにとりなしをしてくださっているのです。イエス・キリストは今も生きて、働かれています。

ヘブル 6:13-7:10

「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側にはいるのです。」(6:19)

「幕の内側」は、神殿の至聖所を指しています。至聖所は神の臨在、天の領域を意味します。つまり、私たちの望みの錨はこの地上ではなく、天の領域におろされていると言うことです。この激動の時代に、私たちはどこに自分の錨をおろしているでしょうか?イエス・キリストが十字架にかかられた時、この幕は上(天)から下(地)に裂けました。それは、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、今、誰でも幕の内側に入り、錨をおろすことができるということです。だから聖書は言います。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(4:16)

オープンチャーチ

昨日はオープンチャーチが行われ、沢山の助けと笑顔の中、無事終えることができて本当に感謝でした。ご協力いただきありがとうございました。また、祈りでのご支援もとても心強かったです。不思議と様々な助け手が与えられ、神様の御手が私たちを導いてくださったことを感じました。私たちは『神の国』の大使館員です。これからもこの地域に神の国を紹介できるよう祈りつつ励んでいきたいと思います!
さて、もう十一月。朝晩の冷え込みが日増しに厳しくなってきました。今年も残すところあと2か月を切ってしまいました。わたしは『きょうまで守られ』という賛美が大好きです。一年の終わりが近づくと必ず歌いたくなります。『今日まで守られ来たりし我が身 霜だに憂えじ行く末などは いかなる折にも愛なる神は 全てのことをば 良きにしたまわん』未来を見つめて前進することも大切ですが、振り返って神様の恵みを数えることも同じくらい大切だと思います。少しづつこの一年を振り返る作業をしようと思います。(小山晶子牧師婦人)

ヘブル 5:11-6:12

「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず、あなたがたがこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。」(6:10)

私たちは行いによって救われるわけではありません。キリストがすでに十字架で成し遂げてくださった御業のゆえに救われるだけであり、それに、何も加えることはできません。しかし、それは、私たちの行いがどうでもいいと言う意味ではありません。キリストを信じ救われたのならば、人としてすべき応答があります。エペソ2:10に、こう書いてあります。

「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。」(口語訳)

誰も見て評価してくれなくても、神様は私たちの行いも見ておられ、忘れないと言います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ヘブル 4:14-5:10

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

この地上でのイエス・キリストの祈りのスタイルは、

「大きな叫び声と涙とをもって」

ということでした。この祈りのスタイルを、十字架を前にしたゲッセマネの園での時だけに限定して考える必要はありません。もちろん、大きな叫び声を涙がなければ聞き入れられないと言っているわけではありません。しかし、イエス様が残してくださった祈りの模範が全身全霊を傾けるスタイルであったことを私たちは忘れるべきではないと思います。神様が求めているのは美辞麗句ではありません。心からの祈りです。大きな叫び声、涙とをもって、呼び求めるような祈りを、主に捧げてみませんか。

ヘブル 4:1-13

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(4:12)

神のことば、聖書のみことばは生きています。なぜなら、聖書のまことの著者である神は今も生きて働かれているからです。神のことば、聖書のみことばは力があります。なぜなら、聖書のまことの著者である神は、力ある神であり、今も生きて働かれているからです。ですから、聖書のみことばが語られる時、人生が変えられ、世界は変革します。それでライト教授はこう言います。

「聖書を手にするとき、自分にこう言い聞かせる必要がある。いま私は、世界で最も有名な書物を手にしているだけではなく、人生を変え、社会を変え、世界を変え得る偉大な力を持つ書を手にしているのだと。実際、いまもそれは変わらない。」

ヘブル 3:1-19

「「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」(3:13)

私たちは互いに励まし合う必要があります。なぜならこの世界には多くの惑わしがあるからです。初代教会の時代にも、

「不信仰な悪い心になって、生ける神から離れる者」(12節新改訳2017)

がいたことが分かります。聖書が注意するのは頑なになることです。

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。神に逆らった時のように」(15節新改訳2017)

聖書はさらにこう言います。

「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」(4:1)

神に対する恐れと励まし合うことを忘れることがありませんように。