1歴代誌 2:18-4:8

「ダビデはそこで七年六か月治め、エルサレムで三十三年治めた。」(3:4)

ダビデがしたことに関しては、後の章で詳しく出てはきますが、この章では、この一行にまとめられています。これは、私たちに対する警告にも受け取れます。私たちのこの世での歩みは一時的で、束の間にすぎないということです。「人生を導く五つの目的」(PDL)の中にこんなことが書いてあります。

「神の目から見た信仰の偉大なる英雄とは、この人生において繁栄を誇り、成功を収め、権力の座に就いた人のことではなく、この人生を一時的なものと受けとめ、永遠において神が約束された報いを受け取ることを期待して、神に忠実に仕えた人のことなのです。」
「この地上における人生が一時的なものにすぎないという事実を受け止めて、今という時を、神の栄光のために生きることができますように。」

1歴代誌 1:1-2:17

「アダム、セツ、エノシュ、」(1:1)

歴代誌第一の一章から九章までは、系図が記されています。この系図の驚く所は、人間の祖先であるアダムからはじまることです。私たち人間のルーツは、結局、アダムにあります。すべてはアダムからはじまりました。神はアダムを造り、アダムを愛しました。しかしアダムは神を軽視し、神に背を向けてしまいました。そしてその罪が代々と受け継がれていくのです。ここに並べられた人名を見るときに、神があきらめずに関わりつづけようとされていることに驚きを覚えます。こんなに沢山の世代の間、神は忍耐し、愛を与えつづけたのです。この系図は、ダビデの時代で終わりますが、今も続いています。神の忍耐は尽きることがありません。尽きるどころか、罪を赦すためにキリストを遣わしたところに、私たちは驚くばかりの愛を感じます。
「神様、あなたの愛と忍耐を感謝します。」

ホセア書 11:12-14:9

「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め。」(12:6)

信仰生活の中でもっとも難しいことの一つが、神を待つということだと思います。私たちは待つことが嫌いです。何とかして物事を自分の思い通りに動かしたいと思います。しかし、神は「待ちなさい」とおっしゃられます。神は私たちとは違うカレンダーを持っています。ヘブル語の「待つ」という単語と「希望」という単語は同じ語根です。「待つ」ことと希望を持つことが同じなのです。私たちは継続的にこの御言葉を自分の心に言い聞かせる必要があります。「絶えずあなたの神を待ち望め」。さらに、LBでは後半部分をこう記しています。

「いつも、あなたの神に期待しなさい。」

私たちは落胆を避けるために、いつのまにか期待をしないようになります。人間が期待に添えないことは多々あります。しかし、神は期待できるお方です。いや、期待以上に応えて下さるお方です。

ホセア書 10:1-11:11

「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。」(11:8)

神はイスラエルが裁かれる理由を明確にされましたが、神の心はあわれみで熱くなっていると言います。あわれみ深い神は、私たちを裁きたいのではなく、赦したいのです。神は私たちが方向転換できるように、機会を与えてくださるお方です。神は、

「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(Ⅱペテロ3:9)

LBでこう訳しています。

「わたしの心は叫んでいる。何としても、あなたを助けたい。」

ホセア書 8:1-9:17

「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。」(8:14)

LBでは前半部分をこう訳しています。

「イスラエルは大きな宮殿を多く建て、ユダは町々の防備を固めた。しかし、自分たちを造った方を忘れてしまった。」

宮殿であれ、神殿であれ、城壁であれ、造り主なる神を忘れて何かをすることほど、空しいことはありません。詩人も明確に歌います。

「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(詩127:1新共同訳)

主ご自身が建ててくださると言っても、労苦がないわけではありません。ただ、造り主を覚えているならば、その労苦が主にあって無駄になることはありません。

ホセア書 6:1-7:16

「イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。」(7:10)

厳しい言葉ですが、私たちは心に留める必要がある言葉だと思います。私たちはいつも、へりくだって、神に立ち返る必要があります。私たちの人生に起こる問題は、神を求める機会となります。ですから、問題の中で祈りに導かれないなら、その問題も意味のないものとなってしまいます。メッセージ訳では、

「すべてのしるしにも関わらず、神を無視している」

とあります。いかがでしょうか。神を無視していないでしょうか。こういう賛美があります。
「私はあなたが必要です。主よ。あなたが必要です。自分の力だけで、この人生をやりきることはできません。」

聖書考古学の連載

11月号のちから誌より一年間の予定で聖書と考古学というテーマで小さな連載をすることになりました。「好き」ということ以外、知識も情報量も乏しい私がどの面下げてとの思いはありますが、大好きな考古学の魅力をできる限りお伝えできればと思いますし、何よりも考古学を学ぶことで聖書が今よりも立体的に読めるようになる一助となれればとの思いです。お祈りいただければ幸いです。
イスラエルで学んだ夏からまるまる25年の月日が流れてしまいました。行った場所の記憶や学んだことがこぼれてしまわないように、忘れないようにと情報をアップデートしながら過ごしてはいますが、そろそろ限界です。きょうの第3礼拝では、イスラエル帰還したユダヤ人を助けるBFP(ブリッジズ・フォー・ピース)で働いておられる梶山兄が証メッセージをして下さいます。「いま」のイスラエルの様子を聞ける貴重な機会ですので皆さん是非是非ご参加ください!近い将来、かの地を踏みしめることができるようにとの思いはマグマのように熱くなっています。(小山晶子牧師人)

ホセア書 3:1-5:15

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」(4:6)

この箇所で神は、当時の宗教指導者たちが、本来、神の御言葉を教える立場にあったのにも関わらず、その役割を成し遂げなかったことを批判します。人々が滅ぶ理由は、彼らが神のみことばを教えなかったからだと言うのです。使徒パウロは言います。

「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。」(ローマ10:2)

熱心だから良いというわけではありません。しっかりとした知識も大事です。ですからパウロは言います。

「だがあなたは、自分が学んで確信した事柄にとどまっていなさい。」(2テモテ3:14)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ホセア書 1:1-2:23

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(2:14)

神は私たちをくどかれるお方だと言います。私たちがどんなに不誠実でも、神は私たちを愛することをやめません。しかし、神が私たちをくどいて、優しく私たちに語るために連れて行く場所は、「荒野」だと言います。「荒野」と聞いて連想することは、「試練」だと思います。確かに、私たちは「試練」の中で、祈りに導かれ、その中で、神の優しい語りかけを聞くことが多々あります。そう考えると、もしかしたら、私たちの人生の中に起こる試練は、神のくどきと言えるかもしれません。ですから、荒野のような時こそ、私たちは神の優しい語りかけを聞く時ということを意識して、祈りつつ、御言葉に耳を傾ける必要があります。神は優しく、語ってくださいます。

アモス書 8:1-9:15

「見よ。その日が来る。―神である主の御告げ。―その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(8:11)

イエス様は言われました。

「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」(マタイ4:4)

ですから、「主のことばを聞くききん」は命に関わる内容です。教会が聖書ではなく、人々が好む話ばかりするようになったら、主のことばを聞くことの飢饉は始まっています。聖書は言います。

「御言葉を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを続けなさい。忍耐と教えを尽くして、とがめ、戒め、勧めなさい。誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話へとそれて行くようになります。」(Ⅱテモテ4:2‐4協会共同訳)