さよなら、君たち。

先週三日間をかけて教会の屋根裏を含む倉庫の大掃除をしました。こちらに引っ越してきて早17年。古いものが出るわ出るわで初日はどうなることかと思いましたが、新實伝道師と小山牧師、次男と健爾兄という片付け5レンジャーで黙々と作業は進められ、普段は見えない場所ではありますがとてもすっきり、きれいな状態になったと思います。それにしても暑かった!特に屋根裏の収納庫は換気扇が壊れている中でエアコンもなく、人生でこんなに汗をかいたことがかつてあっただろうかと思うほどでした。神様の宮である教会をきれいにするのは大変ではありましたが同時に感謝な時間でもありました。古いものを見つけるたびに、このようなプロセスを経て、主が私たちをここまで運んできてくださったのだということを確認することも出来ました。この教会にも苦しいこと、辛いこと、涙することが多々ありましたがその一つ一つの出来事の中に確かに神様はともにおられて、励まし、なぐさめ、力づけてくださったことを改めて思い返す機会ともなりました。 (小山晶子牧師人)

1歴代誌16:37-18:17

「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(18:6)

ダビデは行く先々で勝利を体験しました。聖書は、その理由を、ダビデと共にいた神が彼に勝利を与えられたからだと言います。聖書はこの現実を何度も伝えています。ピリピ人への手紙にもこう記されています。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(4:13)

結局のところ私たちにとって大切なことは、何をするかよりも、いかに生きるかということです。イエス・キリストと共に生きるならば希望があります。ですからイエス・キリストは今日も私たちに語ります。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

イエス・キリストと共に歩むことができる人生は、祝福です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

1歴代誌 15:1-16:36

「ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。」(16:2)

まず神に礼拝をささげてから、様々な働き、奉仕、ミニストリーがあります。この順序が狂ってしまうときに問題が起きてきます。そもそも、神に礼拝を捧げることなくして、人々を祝福することはできません。

「すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神様から来る」(ヤコブ1:17LB)

からです。まず、神の国と神の義を第一に求める中で、私たちは祝福の基となれます。「祝福する」と訳されるギリシア語は、「良い」と「言葉」が組み合わされた単語です。「感謝する」とも訳されます。使徒パウロはクリスチャンの言葉に言及してこんなことを言います。

「みだらな会話や下品な冗談は、あなたがたにふさわしくありません。むしろ、互いに神の恵みを心にとめて、感謝しなさい。」(エペソ5:4LB)

祝福のことばを語る者となりますように。

1歴代誌 12:23-14:17

「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(13:3)

「神の箱」、それは神の臨在の象徴でもありました。しかしサウルの時代、それはほったらかしにされていました。神はサウルを王として選び、サウル王はイスラエルの国を建国し、権威者となりました。しかし、彼にとって「神の箱」などどうでもよかったのです。彼にとっての神は、その程度の存在だったのです。「あってもなくてもいい」、その程度の信仰だったのです。私たちはどうでしょうか。私たちにとって神に礼拝を捧げることは、どの程度の意味があるでしょうか。礼拝を捧げても、捧げなくてもいい、その程度のものでしょうか?神に礼拝を捧げることを顧みずにきてしまったならば、今、ダビデたちのように心を一新(考え方を新たに)しようではありませんか。まず、神の国と神の義を第一に求めようではありませんか。

1歴代誌 11:1-12:22

「ダビデの勇士のかしらたちは次のとおりである。彼らは、彼とともに全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについての主のことばのとおりに、彼を王とした人々である。」(11:10)

イエス・キリストは「ダビデの子」と呼ばれました。ダビデの王権は、神からの王権で、預言者サムエルがダビデに油を注いだ時点で、彼は王でした。しかし、ダビデの勇士たちが彼の王権を強固にし、彼を王としたと言います。イエス・キリストは十字架で私たちのために死なれた時、暗やみの力に対して勝利をとられました。復活というのはその証拠です。イエス・キリストが王であることには変わりはありませんが、私たちはこの地上において、イエス・キリストの王権を強固にしていく使命があります。そのためには、まず、口先だけではなく、自分自身が日々、イエス・キリストを王として生きていく必要があります。

1歴代誌 9:1-10:14

「このように、サウルは主に逆らったみずからの不信の罪のために死んだ。主のことばを守らず、そのうえ、霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった。それで、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された。」(10:13,14)

サウル王の一番の問題、それは、主に尋ねなかったことだと聖書は言います。祈りはキリスト教の核心です。なぜならば、一番大切なことは神との関係を育むことだからです。日々の生活の中で、

「主よ、導いてください」

と祈りによって尋ね求めることは本質的に大切なことです。そして、聖書のみことばに耳を傾け、その箇所を黙想します。

「主よ、この箇所から、あなたは私に今、何を語ろうとしているのでしょうか?」

と思い巡らします。主は、言われます。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)

主を恐れることが知識のはじめ、主を軽く見てはいけません。

1歴代誌 7:1-9:1

「ヨナタンの子は、メリブ・バアル。」(8:34)

8章はベニヤミン族の家系、サウル王の家系が記されています。サウル王は戦死し、彼の家系で唯一残るのがメリブ・バアル、すなわち、メフィボシェテです。ダビデとヨナタンの友情のすばらしさは、ヨナタンの死後、メフィボシェテに注がれました。そして、彼の子孫は祝福され、発展していきます。ここに神の恵みを見ます。メフィボシェテの祝福は、ただ、その父ヨナタンのゆえでした。同じように、私たち人類の祝福はみな、イエス・キリストにかかっています。イエス・キリストのゆえに、私たちの人生は祝福へと変わるのです。ですから、イエス・キリストを信じて、神の子として新生することがとても重要なのです。

「もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」(ガラテヤ3:29)

1歴代誌 6:1-81

「箱が安置所に納められて後、ダビデが主の宮の歌をつかさどらせるために立てた人々は次のとおりである。彼らはソロモンがエルサレムに主の宮を建てるまでは、会見の天幕である幕屋の前で、歌をもって仕え、おのおのその定めに従って、奉仕を担当した。」(6:31,32)

ダビデ王は主の宮で一日中賛美の歌を歌うように音楽家たちに命じました。32節を直訳するならば、

「彼らは会見の天幕の臨在の場の前で音楽をもって仕えていた」。

神の臨在がある所には、賛美が満ちています。賛美に満ちている所に神の臨在があります。ですから、教会の中にいつも賛美が流れていることは大切なことです。賛美の音楽は、あってもなくても良いようなものではありません。賛美は人に聞かせるものではなく、神に捧げるものだからです。どんなに立派な大聖堂であっても、神への賛美の音楽が途絶えてしまうならば、教会としての意味を失ってしまっているのかもしれません。

この世がすべて

令和の時代に入ってからも、暗く重いニュースが続いています。どうしてこんなことが起こるのだろうかと心ふさぐ日々ですが、私たちクリスチャンは絶えず意識しておくべきことがあります。それは、この地上での歩みが私たちのすべてではないということです。特に新約聖書では繰り返し、地上では私たちは旅人であるということと私たちの国籍は天にあるということが語られています。悪魔はこの世がすべてだという嘘を私たちに信じ込ませ、この世のことで私たちの心をいっぱいにさせようと動き回っています。どうせ人生一度きりなんだから、自分の心のままに好きなように生きればいい、と囁くのです。その声を拒絶し、私たちが天の故郷に目を向けるなら、私たちは全く違う視点で物事を見ることができるようになります。この地上での歩みは、神の国の国民としての性質を養うためのレッスンの場であることに気づくとき、新たな光が心に差し込んでくると思うのです。聖書の御言葉に耳を傾け、心を満たすときに悪魔は私たちから遠ざかっていきます。   (小山晶子牧師人)

1歴代誌 4:9-5:26

「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。『私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。』そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」(4:10)

系図がただ続く中で、まるで通読する人のオアシスのように、ヤベツの祈りが目にとまります。ヤベツに関しては、ほとんど分かっていませんが、彼の祈りが彼の人生を変えたことを聖書はどうしても伝えたかったのだと思います。ヤベツの人生を変えた神は今も生きておられます。今も同じように、私たちの祈りに答えてくださいます。

「愛する天のお父様。どうか私を大いに祝福してください。私の領土を広げてください。御手が私と共にありますように。災いから私を守り、私が苦しむことのないようにしてください。イエス・キリストさまのお名前によって祈ります。アーメン」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!