ローマ 16章

「あなたがたの従順は皆の耳に届いています。ですから、私はあなたがたのことを喜んでいますが、なお私が願うのは、あなたがたが善にはさとく、悪にはうとくあることです。」(16:19)

メッセージ訳ではこう訳しています。

すべての「良いもの」が「本物」であることを確認しながら、賢く行動してほしいと思います。口先だけの悪に騙されてはいけません。

残念ながら、いつの時代も甘い言葉で人を騙そうとする人たちがいます。

注意点は、

そのような者たちは、私たちの主キリストにではなく、自分の欲望に仕えているのです。」(18節)

ということでしょうか。

今日は教会の暦では昇天日。

使徒1章にあるように使徒たちが見ている間にキリストが天に上げられたことを覚える日です。

それは、キリストが天においても地においてもすべての権威が与えられた(マタイ28:18)と言うことを覚える日です。

私たちの主、キリストのために生きることができますように。

ローマ 15章

「ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。」(15:7)

パウロがこのローマ人への手紙を書いた目的でもありますが、異邦人中心になっていたローマのキリスト者たちに、ユダヤ人のキリスト者たちを受け入れるように、パウロはお願いしています。

その根拠として、

キリストがあなたがたを受け入れてくださった

と言うことを伝えます。

私たちもまず、キリストが自分を受け入れてくださったことを覚える必要があります。

そして、キリストにあって受け入れ合う姿勢が必要です。

そうするならば、神の栄光が表されます。

イエス様も言われました。

「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(ヨハネ13:35)

残念ながら、教会はいつの時代もこのイエス様の戒めを守れずにいます。

主よ、あわれみたまえ!

ローマ 14章

「それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。」(14:10)

ローマの教会の問題は、互いに自分の確信のゆえに裁き合っていたということでした。

グレイなものに関して、白黒はっきりさせようとしたために、不和がそこに起こってしまっていたのです。

聖書ははっきりとグレイなものがあることを認めるように言っています。

あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。自分が良いと認めていることで自分自身をさばかない人は幸いです。」(22節)

いずれにせよ、裁くのは神であるということを自覚し、神の座に着いて他者を裁かないように気をつける必要があります。

ローマ 13章

「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことは別です。他の人を愛する者は、律法の要求を満たしているのです。」(13:8)

教会の中では貸し借りなど、金銭的な負債の関係がないように気をつける必要があります。

ただ、愛の負債は別だと言います。

それは、

愛は隣人に対して悪を行いません。」(10節)

とあるように、相手に対して思いやりの心を持ち続けることです。

9節は十戒の後半部分ですが、それは、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい

と言う言葉に要約されると言います。

十戒の前半部分は神を愛すること、後半部分は互いに愛し合うことということです。

互いに愛し合うことは、馴れ合いとは違うことはこの箇所からも明確です。

過剰な要求に答えることや、マニュピレーションとも違います。

互いに愛し合っている時、悪を行うことはできません。

ローマ 12章

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(12:2)

「心を新たにする」と訳された単語は、「考え方を刷新する」と言う意味です。

私たちは神に変えていただくために、自分の思考を刷新する必要があります。

具体的な内容は9節以下に見られます。

例えば、迫害する者たちを呪うことがこの世の考え方だと思います。

しかし、神のみこころは「祝福しなさい」(14節)と言います。

このように、私たちは自分の考え方を聖書の考え方に刷新する必要があります。

聖書の考え方に刷新するためには、日々、聖書のみことばを読む必要があります。

もちろん、この世の考え方と摩擦が起きると思います。

しかし、

悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

今日は母の日。

すべてのお母さんに感謝します。

ローマ 11章

「だれがまず主に与え、主から報いを受けるのですか。」(11:35)

この箇所は、ヨブ記41:11の引用だと言われています。

だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに。天の下にあるものはみな、わたしのものだ。

パウロがこの箇所を引用した理由は、明らかに、神の救いの計画というのは、神の人類に対する義務ではないということです。

神からその報いとして何かを受けるほど、神に先に何かを捧げることは人にはできません。

神が負債を負うほど、人は神に何かを捧げることはできないのです。

神の富の深さも、神の知恵の深さも、神の知識の深さも、すべては、神の恵みの世界なのです。

神に対して、人が返せるものは、神に対する感謝だけです。

神に賛美を捧げ、栄光を捧げるだけです。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。」(36節)

※ 明日のSSCの主日礼拝は、三密にならないよう、第一礼拝と第二礼拝に分散しての出席をお願いしています。事前連絡をお願いします。第二礼拝はライブ配信も行います。明日は母の日です。(18時からの第三礼拝は自粛中です。)

ローマ 10章

「では、何と言っていますか。「みことばは、あなたの近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは、私たちが宣べ伝えている信仰のことばのことです。」(10:8)

この箇所で、パウロは申命記30:14を解説しています。

あなたの近くにある「みことば」は、

「私たちが宣べ伝えている信仰のことば」

です。

「あなたの口にあり」とは、

「あなたの口でイエスを主と告白」(9節)

するということです。

「あなたの心にある」とは、

「あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら」(9節)

と言うことです。

つまり、旧約聖書の律法で求められていた内容は、私たちが宣べ伝えている信仰のことばと同質と言うことです。

ですから、申命記30章の真意は、

「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(10節)

とあるように、キリストを信じる信仰告白をするようにと言う命令です。

ローマ 9章

「陶器師は同じ土のかたまりから、あるものは尊いことに用いる器に、別のものは普通の器に作る権利を持っていないのでしょうか。」(9:21)

9章から11章まで、

神のことばは無効になったわけではありません」(6節)

というテーマで、イスラエルについて言及されています。

ローマ書の中心はこのセクションにあると多くの学者は言います。

パウロは、神のイスラエルに対する扱いに関して、エレミヤ書18章に出てくる陶器師の比喩を用います。

陶器師の力は破壊力ではなく、再生力です。

器がどうであれ、陶器師は造り直す力があります。

エレミヤの預言は、イスラエルへの裁きの預言ですが、同時に、悔い改めるなら災いを思い直すと言います。

裁きが宣告されている中でも、神の民イスラエルに対する神の愛が継続していると言うのです。

神のみことばが無効になることはありません。

ローマ 8章

「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」(8:11)

アダムとエバが罪のゆえに失ったもの、それは神の臨在でした。

イスラエルの民は神の臨在の民として召され、彼らの只中にあった幕屋、そして後には神殿に、神の臨在がありました。

しかし、バビロン捕囚の直前、神の臨在は神殿から去ってしまいました。

その後、神殿が再建されても神の臨在は戻っては来ませんでした。

神の御子、イエス・キリストは人となって、私たちの間に住まわれました。

このお方に神の臨在は満ちていました。

そして、今、神の臨在は、キリストのからだである教会に満ちています。

神の栄光の臨在を指す聖霊がとどまる神殿、神の御住まい、それが教会なのです。

ローマ 7章

「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストを通して、神に感謝します。」(7:24,25)

この7章はパウロが救われる前の話か、後の話か議論が繰り返されてきました。

しかし、「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。」(18節)と言う表現は、改心前、改心後であってもパウロ書簡から読み取ることができない内容です。

それでこれは、パウロの内面的な葛藤ではなく、「私」は旧約聖書に見られるイスラエルの姿ではないかと言われます。

律法が悪いわけではなく、律法が罪を規定し、死をもたらしたと言うのが旧約聖書です。

しかし、神に感謝します。

キリスト・イエスにあるいのちを与える御霊の律法、新しい契約が与えられたからです。