ヨハネ 15章

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)

枝は幹からしか、栄養を受け取ることができません。

イエス・キリストを信じるというのは、枝が本来の幹につながるようなものです。

そもそも、人は、幹につながっている枝として造られたはずなのに、アダムとエバが、神に背を向けてしまったために、人はそのままの状態では離れているのです。

どんなに他の何かで誤魔化そうとしても、枝は枝であり、幹につながることがなければ、満たされることはありません。

ですから人は、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、幹につながる必要があります。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 14章

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14:1)

ヨハネの福音書14章は、エリザベス女王の葬儀の時にトラス首相が朗読した有名な箇所です。

大事な点は誰を信じ、誰に従うかということです。

イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従うことが天の御国への道だと言います。

イエス・キリストが、

あなたがたは心を騒がせてはなりません。

と言われたのには理由があります。

27節で再び、このように言われています。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

当時の世が与えるという平和は、パンとサーカスによる「ローマの平和」と呼ばれた見せかけのものでした。

イエス様が与える平和は見せかけではなく、「助け主」(26節)、聖霊による平和です。

ヨハネ 13章

「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(13:35)

キリスト教会の特徴は「愛」だとイエス様は言われました。

批判し合っているならば、誰がイエス様の弟子だと認めるだろうかと言われたのです。

キリストは「新しい戒め」として、

互いに愛し合うこと」(34節)

を命じられました。

残念ながら教会の歴史を振り返るならば、なおざりにされてきた感が否めません。

キリストの弟子であることを人々が認めるためには、「互いに愛し合うこと」だと言われたのにも関わらず、分裂の歴史が繰り返されてきました。

イエス様は弟子たちの足を洗い、こう言われました。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(14節)

すなわち、欠点を批判し合うのではなく、それを補い合うことを命じられたのです。

ヨハネ 12章

「一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。」(12:3)

マリアは自分が持っている最高のものを惜しみなくイエス様に捧げました。

「家は香油の香りでいっぱいになった」

とありますが、これこそ礼拝です。

私たちも最高の賛美を惜しみなくイエス様に捧げ、主の宮である教会を賛美でいっぱいにすることが求められています。

残念ながらイスカリオテのユダのようにイエス様に最高のものを捧げることを批判する人がいます。

それよりも社会事業などに投資した方がいいと。

批判者の動機を聖書は問題視します。

「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」(6節)

イエス様に最高のものを捧げ、主の宮を賛美の香りでいっぱいにしましょう。

ヨハネ 11章

「彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」」(11:27)

マルタの信仰告白は模範的です。

「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」(LB)

しかし、実際に、ラザロの墓石をとりのけるように言われた時、マルタは常識を働かせて「もう臭くなっています。」と引き止めます。

するとイエス様は言われます。

「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(40節)

神は口先だけでなく信仰の行動を求めます。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)

私たちは自分の常識の範囲内に神を入れ込もうとするのではなく、信仰によって生きることが求められています。

ヨハネ 10章

「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」(10:3,4)

羊と羊飼いの関係はとても重要です。

羊は羊飼いがいないと生きられない動物だからです。

羊に求められていることは、羊飼いの声を聞き分け、羊飼いについていくことです。

羊が羊飼いの声を知っているのは、常に羊飼いの声を聞いているからです。

ダビデは歌いました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩23:1)

主なる神が羊飼いならば、何も心配する必要はありません。

イエス様は

「わたしは良い牧者です。」(14節)

と言われました。

三位一体なる神は共にいて、私たちを導いてくださいます。

その声を聞き分けられるように、日々、聖書の御言葉に耳を傾けることが、私たちが求められていることです。

ヨハネ 9章

「弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」(9:2,3)

多くの人は不幸には原因があると考えます。

因果応報を絶対視する傾向は昔も今も変わりません。

このような考えの問題は、不幸の原因を先祖の罪として悪用する新興宗教のような人たちがいることです。

自分が病気なのは、自分が不幸なのは、何か悪いことをしたからとは限りません。

先祖の罪とは限りません。

イエス様は明確に言われました。

「あなたは間違った質問をしています。あなたは誰かのせいにしたがっている。ここにはそのような因果関係はありません。それよりも、神ができることを見なさい。」(3節MSG)

マイナスは必ずプラスになります。

神は全てのことを働かせて益としてくださいます。

いざ、鎌倉

歴史好きで「鎌倉殿の13人」をかかさず見ているという宣教師ファミリーを鎌倉にお連れしました。

多くの観光客で混雑していた鎌倉は今まさに北条義時フィーバー!

そこここにグッズが売られていてわたしもつい、クリアファイルを購入してしまいました。

数年ぶりに歩いた小町通りは随分と店が入れ替わっており、コロナ過での観光地ならではの苦労を目の当たりにしました。

驚いたのはほぼすべての人が持っていた豊島屋の袋。

ご存知のように若宮大路には鳩サブレで有名な豊島屋の本店があります。

せっかくなのでわたしたちも立ち寄り、5枚入りのセットを購入しました。

少しサイズは小さくなったような気がしますが本物のバターの風味とサクサクでまろみのある味わいは変わることなく、不思議とまた食べたくなります。 

帰りに海岸線を走っていると、この道を通って辻堂に住んでいた鈴木姉のところを訪問したことをふと思い出しました。

江の島と、おだやかな海と、夕焼けがあまりにも美しくて泣きそうになりました。

鈴木姉ロスが続いていますが今月22日(土)には納骨式を予定しています。

(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 8章

「しかし、彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」」(8:7)

律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられた女をイエス様のところに連れて来て

「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするよう私たちに命じています。あなたは何と言われますか。」

と詰め寄りました。

そもそも、「姦淫の場で捕らえられた」という時点できな臭さを感じます。

イエス様の応答は、すべての批判者に向けられています。

「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」

私たちは誰かに石を投げる前に、自分自身を問う必要があります。

「自分は石を投げることのできる者だろうか?」。

この世界で唯一、その権利があるイエス様は言われました。

「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 7章

「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。」(7:18)

イエス様の弟たちは、イエス様に言いました。

「こんな所でくすぶっていても有名にはなれないよ。兄さんがそんなに偉い人だったら、世間の人に証明してみせなくては」(4節LB)

弟たちは、もしかしたら、イエス様が有名になってみんなから褒めてもらいたいと思っていたのかもしれません。

しかし、イエス様は有名人になって、スポットライトを浴びたかった訳ではありませんでした。

だからイエス様は言われました。

「自分の意見だけをまくし立てる人は、実はわが身がほめられたい一心なのです。しかし自分をお遣わしになった方の栄誉を求める人は、正直者です。」(LB)

イエス様は、神からかどうかは、自分の栄光を求めているのか、それとも、イエス様の栄光を求めているのかどうかで分かると言われました。

Soli Deo Gloria!