マルコ 8:14-26

「そのとき、イエスは彼らに命じられた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種には、くれぐれも気をつけなさい。」」(8:15)

パン種とはパンを膨らませるために使用されるイースト菌のことで、「神の国の間違った概念」という意味で使用しています。

そして、イエス様の真意を理解しない弟子たちに対してイエス様はエレミヤ書5:21を引用します。

「さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは目があっても見ることがなく、耳があっても聞くことがない。」

つまり、イエス様は「あなたたちは今、エレミヤ時代のイスラエル人たちと同じ道を行く危険にあることが分からないのですか」と訴えていたのです。

イエス様がパリサイ人やヘロデたちに対して問題視していたことは、自分たちのことばかりに執着していたことでした。

自分たちだけが良ければ周りの人はどうでもいいという姿勢が滅びを招きます。

ぶんでんリレー

いのちのことば社文書伝道デー「ぶんでん」。

コロナ前までの20年はどは、いのちのことば社スタッフが日曜礼拝後に教会を訪問し文書の販売と証の働きをしていました。

様々な変化の中で模索し、試験的に始まったのがこの「ぶんでんリレー」です。

コンパクトではありますが評判の良いキリスト教書やグッズを中心にセレクトしたボックスが、近隣の教会を数日ずつ巡っていくというこの企画。

紙媒体のものを読む機会が激減した昨今ですが温もりのある紙のページをめくって読む良さがあると思います。

オアシス横浜になかなか行けないという方にとっては大きな助けになる機会だと思います。

注文することも可能ですので是非ゆっくりとご覧ください。

送料がかからないのも助かりますよね。

現金での取扱のみとなりますのでその点のみご注意ください。

コロナ禍以降、日本のキリスト教会は実は危機的な状況となっています。

閉鎖する教会、牧師がいない教会も増え、わたしの友人牧師も兼牧を余儀なくされています。

小さなキリスト教界でぶんでんの働きが消えてしまうことがありませんように。

 (小山晶子牧師婦人)

マルコ 8:1-13

「すると、イエスはお尋ねになった。「パンはいくつありますか。」弟子たちは「七つあります」と答えた。」(8:5)

よく似た出来事が六章にありました。

五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人が食べて、残り物が十二かごになりました。

十二という数字はイスラエルの十二部族を象徴していると考えられ、ユダヤ人世界におけるイエス様の働きを象徴したものと考えられます。

今回は七つのパンと少しの魚で四千人が食べて、残り物が七つの籠になりました。

「男が」という言及はなく、奇跡が行われた場所は、ユダヤ人居住区ではありませんでした。

つまり、五千人の時には数にも入れられなかった女性や子どもや外国人がこの四千人に含まれているのです。

そう考えるならば、このことを通して神がどれほどすべての人を気にかけておられるかが分かります。

また、神は私たちの日々の糧、この地上の営みも大切にされているということが示されています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

マルコ 7:24-37

「そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。」(7:34)

イエス様にとって病気のいやしとは、単に医者が病気を治すこととは違いました。

イエス・キリストが病気をいやされた理由は、旧約聖書の預言の成就であり、神の国がこの地に入り込んできたことのしるしでした。

注目していただきたいのは、イエス様が「エパタ」と言われたとアラム語が使用されていることです。

初代教会で「エパタ」という言葉が使用されていたのだと思われます。

「エパタ」と宣言して祈っていたのだと思います。

「開け」という単語は命令形ですが受動態です。

つまり、正確には、「開かれなさい!」です。

神的受動態(divine passive)と呼ばれますが、主語は「神」です。

「人にはできないことも神にはできる」という信仰をもって初代教会の人たちは、「エパタ!」、「開かれなさい!」と祈っていたということです。

マルコ 7:14-23

「イエスはまた言われた。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。」(7:20,21)

本当の問題は外的な要因ではありません。

イエス様がここでポイントしていることは、

「人は皆、イエス・キリストが必要だ」

ということです。

食物規定のポイントは食べ物ではなく、心の問題であり、人はイエス・キリストを信じ、新しく生まれ変わる必要があるということです。

目に見えるかたちで現れてくることは、 その人の内側から出てくるものです。

つまり、イエス様が言いたいことは、人は皆、問題を抱えているということです。

「ありのまま」では問題解決にはならないということです。

私たちは皆、自分の弱さを認め、聖霊様の助けを求め、イエス・キリストの臨在と共に前進する必要があります。

聖書の御言葉を心に蓄え、前向き、肯定的、信仰的な言葉がいつも口から出てきますように。

マルコ 7:1-13

「またイエスは言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」(7:9)

イエス様は単純に「伝統」対「聖書」という話をしたわけではありません。

イエス様はご自身の働きによって、神の国 がもたらされたことを伝えているのです。

聖書が語ってきたことが、イエス様が行われていることによって成就していることを伝えたかったのです。

パリサイ人たちは自分たちが作り上げて来た伝統でいっぱいになっていました。

ですから、イエス様を認めるどころか、批判することしかできなかったのです。

「神の国の訪れ」を受け止めることができなかったのです。

農協の創始者、賀川豊彦の口ぐせはこうだったそうです。

「きみ、天国を知っているかね。」

「知りません。」

「人をほめるところだ。」

「地獄を知っているかね。」

「知りません」

「人の悪口を言うところだ。」

(河野進詩集)

マルコ 6:45-56

「みなイエスを見ておびえてしまったのである。そこで、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。」(6:50)

イエス様の素晴らしい御業をどんなに体験しても、嵐の中で、湖の上を歩いて近づくイエス様を、弟子たちは認識できませんでした。

そんな弟子たちに、イエス様はすぐに話しかけてくださいました。

「わたしだ」

と訳された言葉は、燃える柴からモーセに語られた神ご自身の名前と同じです。

モーセが神の名を尋ねると神はこう言われました。

「わたしは、『わたしはある。』という者である。」(出三・十四)

これは、英語のBe動詞にあたる言葉で「存在」を意味します。

「わたしはここに存在している。」

神の御業を忘れ、パニックに陥っている状況の中で、イエス・キリストは近づいてきて、

「わたしはここにいる。恐れることはない。」

と語ってくださるというということです。

マルコ 6:30-44

「イエスは彼らに言われた。「パンはいくつありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて来て言った。「五つです。それに魚が二匹あります。」」(6:38)

イエス様が教えられているうちに、時刻も遅くなってしまいました。

弟子たちは、めいめいが食物を調達できるように解散してくださるように、イエス様にお願いしました。

するとイエス様は弟子たちに、「必要が分かっているなら、あなたたちが与えなさい」と言います。

しかし、弟子たちは、男だけで五千人の食料を準備することは不可能でした。

イエス様は弟子たちに、「ない」ものではなく、「ある」ものに視点を移行するようにさせます。

そして、できないと逃げるのではなく、向き合うようにさせました。

もちろん、イエス様が、みな、食べて満腹するようにしました。

しかし、このイエス様の働きに、弟子たちが向き合うようにされたところに、大きなポイントがあります。

私たちが求められていることは、私たちがもっているものです。

マルコ 6:14-29

「これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものにするのは、律法にかなっていない」と言い続けたからである。」(6:18)

ヘロデはユダヤ人ではありませんでした。

さらに、ヘロデは「王」ではなく、ローマ帝国から委任統治が託された「領主」でした。

しかし、彼はユダヤ人たちの「王」として認識して欲しいという思いがありました。

バプテスマのヨハネのポイントはこういうことです。

「ユダヤ人の王」は「油注がれた者」、「メシア」のことであり、「メシア」は兄弟の妻と結婚するようなふるまいはしないと指摘したということです。

結局、ヘロデとヘロデヤは、カリグラが皇帝になった時、現在のフランスに流刑となり、不名誉な死に方をします。

バプテスマのヨハネは、確かに、理不尽な最後でしたが、「ユダヤ人の王」とは誰かを明確に示し、自分の使命を果たして召されました。

ヨハネの使命は、イエス・キリストを指し示すことでした。

目指せ!エパフロデト

デボーションでピリピ人への手紙を読んでいます。

パウロは多くの手紙を諸教会に書き送っていますが、時には厳しく、時には宥めるように指導している様子を見ながら以前とはまた違った視点で様々な気づきがあり、楽しく豊かな神様との時間を過ごしています。

そんな中でいまは特にピリピ2章に出てくるエパフロデトが心に留まっています。

パウロは彼のことを「わたしの兄弟、同労者、戦友」と紹介しています。

パウロの宣教活動を支えた人物としてはテモテやプリスキラ、アクラが有名ですが、エパフロデトに対する思いは特別強いように感じました。

パウロが経済的に厳しい状況の時に支えてくれたことや、命をかけて助けてくれたことなど、どれほどその存在が心強かったかが伝わってきます。

これまではさらっと読んでいたエパフロデトに関する記述が、今回は感動と共に心に迫ってくるのです。

それはわたし自身の献身者としての歩みの振り返りとも重なってきます。

エパフロデトのような方々の支えがあったことを感謝すると共に、わたし自身も誰かのエパフロデトでありたいという祈りへと導かれています。

(小山晶子牧師婦人)