使徒 25:13-27

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」(25:19)

ローマの総督、フェストゥスが理解したパウロの主張は、「イエスが生きている」ということでした。

フェストゥスはそのようにヘロデ・アグリッパ2世に伝えました。

ヘロデ・アグリッパ2世は、二七年ごろに生まれ、ローマで育ったと考えられていますので、イエス様と会ったことはありません。

しかし、ヘロデ一族がイエス様のことを知らないはずがありません。

曽祖父のヘロデ大王は、イエス様が誕生した時に、イエス様の存在を恐れて殺そうとしました。

しかし、「イエスが生きている」という主張を聞いても、ヘロデ・アグリッパ2世は恐れている印象は受けません。

彼は総督に、「私も、その男の話を聞いてみたいものです」(22節)と伝えています。信仰は聞くことから始まります。(ローマ10:17)

使徒 24:24-25:12

「数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った。」(24:24,25)

パウロが語っていた「キリスト・イエスに対する信仰」についての話には、「正義と節制と来たるべきさばき」についての話が含まれていました。

福音は「信じれば天国に行ける」という話だけではなく、神との正しい関係、道徳的規律、やがて来る審判といった内容が含まれます。

イエス・キリストを信じているならば、神を無視した、自堕落な生活を続けることはできません。

人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。

健全な神への畏れを持つことも、「キリスト・イエスに対する信仰」に含まれています。

岩渕まことさんのこと

 わたしが初めて岩渕まことさんとお会いしたのは今から35年前。

洗練されたギターテクニック、優しい歌声と軽快なトークは思春期で捻くれていたわたしの心に爽やかで穏やかな風を運んでくれました。

あれから岩渕さんとは奉仕の関係で何度か言葉を交わす機会はありましたが、来月9月10日(日)にこの教会に初めてお招きすることができ、伝道コンサートをしていただけることを本当に嬉しく思います。

きょうの礼拝では聖歌以外の全ての賛美を岩渕さんの作品の中から選びました。

わたしたちにどれも馴染みのあるものばかりです。

みなさんできれば、いえ、必ず生の岩渕さんを体験してくださいね!

せっかくの機会、来ないと絶対損すると思います。

賛美はもちろん、映画ドラえもんの主題歌やコマーシャルソングなども手掛けておられますので、きっとコンサートではあんな曲やこんな曲も歌ってくださると思います。

当日は奥様の由美子さんも来てくださり楽しいステージになること間違いなしです。

ご家族やお友達にもお声がけくださり、ちょっと早めのオータムコンサートを一緒に楽しみましょう!!    (小山晶子牧師人)

使徒 24:10-23

「ただ、私は閣下の前で、次のことは認めます。私は、彼らが分派と呼んでいるこの道にしたがって、私たちの先祖の神に仕えています。私は、律法にかなうことと、預言者たちの書に書かれていることを、すべて信じています。また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。」(24:14,15)

パウロの弁明には、明確なパウロの信仰告白を見ることができます。

パウロは聖書に書かれていることを「すべて信じています」と主張しました。

キリスト者とは聖書に書かれていることを信じる者です。

聖書に書かれている神を信じ、仕え、聖書に記されている通り、復活を信じます。

だからパウロは、

「神の前でも人の前でも、いつも良心に恥じない生活を精一杯心がけております。」(16節LB)

と言います。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 23:31-24:9

「実は、この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人の一派の首謀者であります。」(24:5)

一世紀の日本は弥生時代で、どのような裁判制度があった不明ですが、地中海世界ではプロの弁護士(1節)が存在していました。

彼は言葉巧みにパウロを告発します。

パウロが告発された理由は、「疫病のような人間」とあるようにパウロの影響力です。

また、当時、キリスト教はナザレ派と言われていました。

イエス様がナザレの出身だったからです。

ナザレのイエスの福音が、疫病のように広がり、世界中を騒がせてると揶揄したのです。

もっとも、福音の広がりと、疫病の感染力が比較されるほど、福音の力は強いものです。

今も、世界中で福音は広げられ、出生率よりも、キリスト者になる人の方が多いと言われます。

私たちもパウロのように、自信と確信をもって福音を伝えていくことができますように。

使徒 23:12-30

「ところが、パウロの姉妹の息子がこの待ち伏せのことを耳にしたので、兵営に来て中に入り、そのことをパウロに知らせた。」(23:16)

この時、陰謀を企てたユダヤ人たちは、熱狂的な愛国主義者だったシカリ派の人たちのことだったと考えられています。

極端な思想を持つ人は、いつの時代も自分の考える正義感で自らを正当化し、暴力に訴えます。

しかし、神の守りは人の謀略を超えています。

神はパウロの姉妹の息子を用いて、この陰謀を千人隊長に知らせ、千人隊長はパウロをカイサリアに移送します。

パウロに家族がどのぐらいいたのかは、聖書に出て来ないので分かりません。

しかし、この箇所から、少なくともパウロの姉妹の家族がエルサレムにいたことが分かります。

また、パウロに知らせていたところを見ると、良い関係があったことも分かります。

神は必要な助けを備えてくださるお方です。

使徒 22:30-23:11

「パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」」(23:6)

歴史家のヨセフスはパリサイ人に関してこんな記述をしています。

「パリサイ派は、律法諸規定のもっとも厳密な解釈者と見なされ、首位を占める学派であったが、彼らはいっさいを運命と神に帰した。」

つまり、パウロはその時代のユダヤ教でもっとも影響力があり一番大きなグループに属していました。

また、この後、七〇年のエルサレムの崩壊後に唯一残ったのもパリサイ人です。

パウロは「パリサイ人だった」と過去形にすることはありませんでした。

パウロは、パリサイ人たちが信じていた「死者の復活という望み」の成就をイエス様に見ていました。

使徒 22:17-29

「すると千人隊長は言った。「私は多額の金でこの市民権を手に入れたのだ。」パウロは言った。「私は生まれながらの市民です。」」(22:28)

パウロの時代のローマ帝国は、共和制が終わり、帝政へ移行した時代でした。

共和制後期は、戦争捕虜として征服地からの奴隷の数が急増し、当時のローマ世界の人口の三分の一は奴隷だったと言われています。

ローマの市民権を持っていたローマ人は全住民の一〇パーセント弱だったと言われています。

どうやってパウロの家族がそのローマの市民権を手に入れたかは聖書に出てきません。

パウロの祖父や曽祖父がユりウス・カエサルやマルクス・アントニウスなどがタルソを訪れた時に、ローマ兵にテントを用意し、その報酬として与えられたと考えられています。

パウロが生まれながらにローマ帝国の市民ということは、パウロの父親がローマ帝国の市民であったということです。

神の摂理がそこにあったことが分かります。

使徒 22:1-16

「私が答えて、『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、その方は私に言われました。『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである。』」(22:8)

パウロは、心からの願いでもあった、エルサレムで同胞に対して自分がどうしてキリスト者になったかを証しする機会が与えられました。

「兄弟ならびに父である皆さん。今から申し上げる私の弁明を聞いてください。」(1節)

と、パウロは敬意をもって話しはじめます。

パウロは自分がキリスト者になった理由は、ダマスコ途上でイエス様にあったからだと説明します。

天からのまばゆい光」(6節)

は、エゼキエル書1章でエゼキエルが見た

主の栄光の姿」(28節)

を彷彿させます。

証とは、このようにキリストに出会う前と出会った後について語るものです。

誰もが、パウロのようにイエス様の声を直接聞くわけではありません。

しかし、聖書を通して、誰もが神の言葉を聴くことができます。

使徒 21:27-40

「彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。」(21:31)

パウロがエペソで聖霊様に示されて、エルサレムに行くことにした時、このように言いました。

「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」(19:21)

パウロがエルサレムからローマに行くことは神のご計画でした。

その道のりがどんなに過酷であったとしても、パウロがローマに行くことは神のみこころでした。

どんなにエルサレムでパウロが殺されそうになっても、神の守りがそこにありました。

千人隊長に報告が届いたことも、パウロを捕らえるために駆けつけたことも、神の摂理の中にありました。

神は私たち一人一人にご計画を持っておられます。

神が与えられた使命を全うするまで、人は神の不思議な守りの中で生き続けます。

神のみこころは必ず成し遂げられます。