コンサートマスター

コンサートマスター、通称「コンマス」。

 

オーケストラの奏者をとりまとめる職を与えられた人のことで、一般的には第一バイオリンのトップがこの職を担います。

指揮者の指示の細かいニュアンスをボーイング(弓の上げ下げ)を通して伝えたり、楽譜に書く指示を決めたり、かなりの責任と緊張感を必要とする職。

今週土曜日に行われる年に一度のユーオーディアオーケストラコンサートで長男がコンマスに選ばれ、準備に勤しんでいます。

少しづつ世代交代をということだとは思いますが、正直なところわたしは物凄く緊張しています。

かつて何度も受けていたバイオリンコンクールを思い出します。

もう、緊張しすぎて耳が聴こえなくなり、音が遠くの方で鳴っているあの感じ。

少しソロで弾く場所もあるそうです。

本人もわたしも、神様への賛美に集中できるようにぜひお祈りください。

コロナ禍でできなかった会衆賛美「聖なる聖なる聖なる」が今年は復活するそうです!

主の栄光と臨在溢れる時となりますように。

『恥わ我がもの。栄光は主のもの。』

ハレルヤ!   (小山晶子牧師人)

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使徒 10:1-16

「彼は御使いを見つめていたが、恐ろしくなって言った。「主よ、何でしょうか。」すると御使いは言った。「あなたの祈りと施しは神の御前に上って、覚えられています。」(10:4)

コルネリウスは百人隊長でした。

ローマ帝国の百人隊長たちは自分の部隊を教練し、訓練を維持し、軍団兵を戦場へ引率しました。

彼らの存在はとても重要で、兵士や退役軍人の墓には所属していた百人隊長の名が刻まれています。

彼の品性は2節によく描写されています。

彼は敬虔な人で、家族全員とともに神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りをささげていた。

この箇所が私たちに教えている大切なことは、私たちの「祈りと施し」は「神の御前に上って、覚えられています」ということです。

人は行いによって救われるわけではありません。

イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、信じるだけで救われます。

しかし、私たちの「祈りと施し」は、神に覚えられています。

使徒 9:32-43

「またヤッファに、その名をタビタ、ギリシア語に訳せばドルカスという女の弟子がいた。彼女は多くの良いわざと施しをしていた。」(9:36)

初代教会のキリスト者の一人、タビタは、「多くの良いわざと施し」をしていたと言います。

やもめたちはみな彼のところに来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(39節)

とあります。

マザー・テレサのような人だったのだと思います。

初代教会は彼女のように献身的に人々に仕える人たちがいて、広がっていきました。

キリスト者は救われるために良いわざをするわけではありません。

イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、信じるだけで救われます。

しかし、イエス・キリストを信じる者は、イエス様がなされた働きを継続して行きます。

聖霊様に導かれて、「多くの良いわざと施し」に導かれて行きます。

使徒 9:23-31

「かなりの日数がたち」(9:23)

ガラテヤ人への手紙の中で、パウロはこんなことを言っています。

母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。」(15-17節)

パウロはダマスコで福音を伝え始めた当初、アラビアの荒野の行ったと言います。

それから再びダマスコに戻って福音を宣べ伝えたということなので、「かなりの日数がたち」ということのようです。

アラビアに何しに行ったのか、明確には記されていませんが、静まって、祈りと聖書のみことばの時間をとったのだと思われます。

誰かに相談する前に、まず、神の前に静まり、祈り、ただ御言葉に耳を傾ける時間をとることは大切です。

使徒 9:10-22

「さて、ダマスコにアナニアという名の弟子がいた。主が幻の中で「アナニアよ」と言われたので、彼は「主よ、ここにおります」と答えた。」(9:10)

イエス様はアナニヤという一人の信徒を用いました。

彼はイエス・キリストを信じ、どうやって、イエス様の声を聴き分けるかを知っていました。

そして、どんな危険が待ち受けようともその声に聞き従う準備が出来ていました。

彼は愛と恵みと知恵をもって実行することができました。

神は、牧師、伝道師、宣教師と呼ばれる教職者だけを用いられるわけではありません。

信徒を用いられます。

「神様に導かれました・・・」と、神の導きに従う主にある兄弟姉妹がいるからこそ、教会は存在しています。

アナニヤの従順によって、サウロの目は癒され、聖霊に満たされました。

するとただちに、サウロの目から鱗のような物が落ちて、目が見えるようになった。」(18節)

この箇所から「目から鱗が落ちる」という慣用句が生まれました。

使徒 9:1-9

「彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞いた。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」」(9:4)

使徒パウロのユダヤ名はサウロでした。彼は教会を迫害していました。

「キリスト者は神を冒涜する存在」と考えていたからです。

しかし、ダマスコ途上で、突然、天からの光が彼の周りを照らし、彼は地に倒れて、自分に語りかける声を聞きました。

これは、旧約聖書の預言者エゼキエルを彷彿させる出来事でした。

その方の周りにある輝きは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、まさに主の栄光の姿のようであった。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。」(エゼキエル1:28)

ですから、サウロはすぐこの声が神からであると認識できました。

彼は教会を迫害していたのですが、キリストは教会を自分と同一視されました。

教会はキリストのからだです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

使徒 8:26-40

「ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。」(8:35)

エチオピヤの女王カンダケのもとで、大きな権力を持ち、女王の財政を管理していたエチオピヤ人の宦官が、エルサレム神殿から帰る途中、イザヤ書を声に出して読んでいました。

要するに、彼は求めていました。

そんな彼のもとに聖霊様はピリポを導きました。

近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」(29節)

ピリポが従順に走り寄ると、イザヤ書を読んでいるのが聞こえました。

それで、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と尋ねます。

すると彼は答えます。

導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」(31節)

求める者に、神は必ず答えられます。

ピリポは彼に「イエスの福音」を伝えたとあります。

聖書は、イエス・キリストを中心にしないと分かりません。

導かれたならば大胆に、イエス・キリストを伝えることができますように。

使徒 8:14-25

「そこで二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。」(8:17)

彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだ、彼らのうちのだれにも下っていなかったからであった。」(16節)

とあるように、聖霊のバプテスマは、水のバプテスマとは異なる体験です。

魔術師シモンが

使徒たちのところに金を持って来て、「私が手を置く者がだれでも聖霊を受けられるように、その権威を私にも下さい」と言った。」(18,19節)

というほどの体験だったことが分かります。

問題は、それは人が与えるものではなく、聖霊なる神が与える満たしということです。

ですから、金で買えるものではありません。

ペテロの叱責に対して、魔術師シモンは悔い改めます。

「あなたがたが言ったことが何一つ私の身に起こらないように、私のために主に祈ってください。」(24節)

彼の悔い改めが真実なものであったことは、彼が赦されていることからも分かります。

使徒 8:2-13

「散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。ピリポはサマリアの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」(8:4,5)

迫害のゆえに散らされた人たちは、行った先々で、イエス様のことを宣べ伝えました。

その一人は、七人の長老の一人、ピリポでした。

ピリポはユダヤ人たちが蔑み、関わりを持ちたがらなかったサマリアの町で、イエス様のことを宣べ伝えました。

その結果、サマリアの町に大リバイバルが起こります。

迫害が起こり、散らされたことは否定的な出来事でした。

ピリポがどんな気持ちでサマリアに下っていったかは分かりません。

ただ、神はその否定的な出来事を用いて、福音を前進させました。

マイナスは必ずプラスになります。

私たちに求められていることは、否定的にならずに、どこに行っても、そこでキリストを宣べ伝えることです。

神はマイナスに見えることを用いられる「不思議」なお方です。

使徒 7:51-8:1

「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外はみな、ユダヤとサマリアの諸地方に散らされた。」(8:1)

過激な思想を持っていたサウロは、ステパノ殺害に賛成し、さらに、教会を荒らします。

しかし、彼は後に、使徒パウロとなります。

パウロの人生にとって、このステパノの殉教が与えた影響は決して小さいものではありませんでした。

ただ、その影響が実際に現れるまでには、さらにもう少し時間が必要でした。

私たちには理解できないことがたくさんあります。

私たちは神の時があることを知る必要があります。

聖書は言います。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(伝道者3:11)