2サムエル 18:1-15

「戦いはこの地一帯に広がり、この日、剣よりも密林のほうが多くの者を食い尽くした。」(18:8)

「剣よりも密林」という表現に、神のご介入があったことが示唆されます。

アブサロムはハンサムでした。

聖書は言います。

さて、イスラエル中を探しても、アブシャロムほど男らしく顔立ちのよい人物はいませんでした。また彼ほど、そのことでほめそやされた者もいませんでした。彼は年に一回、髪を刈りました。髪の重さが二百シェケル以上にもなり、そのままでは歩くのさえ難しかったからです。」(14:25,26LB)

彼の髪は彼のプライドでもあったようです。

まさに

神は高ぶる者には敵対し、へりくだった者には恵みを与えられる」(1ペテロ5:5)

ということなのだと思います。

今日は主の日。謙遜になって主を認め、共に主に礼拝を捧げましょう!

今日は母の日です。すべてのお母さんに感謝します。

2サムエル 17:15-29

「ダビデがマハナイムに来たとき、アンモン人でラバ出身のナハシュの息子ショビと、ロ・デバル出身のアンミエルの息子マキルと、ロゲリム出身のギルアデ人バルジライは、寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り豆、蜂蜜、凝乳、羊、チーズを、ダビデと彼とともにいた民の食糧として持って来た。彼らが「民は荒野で飢えて疲れ、渇いています」と言ったからである。」(17:27-29)

マハナイムはサウルの息子、イシュ・ボシェテの都があった場所でした。(2:8)

マキルは、サウルの息子であるヨナタンの息子、メフィボシェテを助けた人物です。(9:4,5)

ダビデのメフィボシェテに対する誠実な対応を見た人たちがダビデを助けたということが分かります。

ダビデたちの勝利の背後には多くの人たちの協力がありました。

それは、ダビデが誠実に生きてきたことに対する結果でもあったと言えます。

神にも人にも愛される生き方ができますように。

2サムエル 17:1-14

「アブサロムとイスラエルの人々はみな言った。「アルキ人フシャイの助言は、アヒトフェルの助言よりも良い。」これは、主がアブサロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれた助言を打ち破ろうと定めておられたからである。」(17:14)

不思議なことに、どんなに優れた助言がそこにあったとしても、それが実行されるとは限りません。

結局のところ、神が介入される時、人は何もできません。

最終的には神のみこころが行われます。

ですから、どんなにこの世界の情勢が不透明であったとしても、私たちは過度に恐れることなく、神に信頼することができます。

最終的な決定権は神にあるからです。

あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、あなたを責め立てるどんな舌も、さばきのときに、あなたがそれを不義に定める。これが、主のしもべたちの受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。──主のことば」(イザヤ54:17)

2サムエル 16:15-23

「当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はすべて、ダビデにもアブサロムにもそのように思われた。」(16:23)

アヒトフェルは、アブサロムがダビデ王との和解を全く不可能とすることを助言します。

それは死と滅びの言葉でした。

しかし、ダビデにもアブサロムにも

アヒトフェルが語ることはすべて、神の口から直接授けられた知恵のように思われた」(LB)

と言います。

考えてみますと、アダムもエバも同じように、蛇にだまされました。

私たちは神のみことばを聞くことを学ぶ必要があります。

どんなに知恵のある言葉に聞こえたとしても、聖書の御言葉に反した教えであれば、それは神からのものではありません。

2サムエル 16:1-14

「おそらく、主は私の心をご覧になるだろう。そして主は今日の彼の呪いに代えて、私に良いことをもって報いてくださるだろう。」(16:12)

逃げるダビデ王に、前の王のサウル家の一族の一人、シムイがののしります。

まさに泣きっ面に蜂。

ちいろば先生こと榎本師はこんなことを言っています。

「誤解や中傷は私たちの人生にはつきものである。それは決して特別なものではない。ところが私たちはこうした被害を受けるとき、なんとか早くそれが解消するようにとやっきになる。しかし、自分をのろう者を抹殺したからといって、それで問題が解決するわけのものではない。・・・神への信頼、神による勝利を確信する者だけが、耐えることができ、耐えることができる者だけが勝利にあずかることができるのである。」

呪いが不当であるのなら、神は必ず良いことをもって報いてくださいます。

私たちはその究極の姿をイエス様の十字架に見ることができます。

2サムエル 15:24-37

「そのときダビデは、「アヒトフェルがアブサロムの謀反に荷担している」と知らされた。ダビデは言った。「主よ、どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。」」(15:31)

アヒトフェルは、ダビデが信頼する自分の顧問、助言者でした。

そのアヒトフェルがアブサロムに加担していることを聞いて、ダビデたちがうろたえている様子が伺えます。

ダビデの祈りは、明らかに、アヒトフェルの助言を恐れています。

アヒトフェルは、どうしてアブサロムに加担して謀反を起こしたのでしょうか。

「ギロ人アヒトフェルの子エリアム。」(23:34)

「エリアムの娘バテ・シェバ」(11:3)

とあるように、アヒトフェルはバテ・シェバの祖父だったことが分かります。

ダビデ王は、このバテ・シェバと不倫をし、その夫ウリヤを戦いの中で殺害しました。

孫娘夫婦に災いをもたらしたダビデをアヒトフェルは赦せず、憎しみを抱いていたことが想像できます。

憎しみは人を破滅に追いやります。

2サムエル 15:13-23

「イタイは王に答えて言った。「主は生きておられます。そして、王様も生きておられます。王様がおられるところに、生きるためでも死ぬためでも、このしもべも必ずそこにいます。」」(15:21)

イタイはおそらく職業軍人でした。

ダビデは王位を失い、さまよう者となった自分を護衛しても、報酬も与えることができない状況なので、エルサレムに戻るようにと勧めました。

すべての責任から彼とその部下を解放して、帰らせようと勧めた後、忠誠の誓いを受けます。

注目すべきはイタイの言葉です。

主は生きておられます。

イタイはイスラエル人ではありませんでしたが、イスラエルの神、「主」(ヤハウェ)の御名を用います。

イタイの信仰告白とも受け取れます。

イタイの忠誠は、主に対する忠誠だったのです。

ですから、アブサロムの反乱に与することもありませんでした。

ダンゴムシの一生

教会の庭に大量のダンゴムシが生息しています。

先週日曜日、教会学校のお友だちに捕まえてもらうと、ものの数分で片手いっぱいにダンゴムシが。

ダンゴムシはどうして存在しているのか、どんな役割があるのか調べてみました。

いま日本の庭先などにいるダンゴムシは「オカダンゴムシ」と言い,ほとんどが外来種だそうです。

エビやカニの仲間で寿命は約3年、そこそこ長生きです。

メスのお腹の中で成長し、一気に100匹ほどがカラダから出てくるそうです。

ダンゴムシといえば丸めて指で飛ばして遊ぶ事くらいしか子どもの頃は思いつきませんでしたが、実は土壌を豊かにしてくれるというポジティブな面もあるようです。

まあまあ気持ち悪いので薬を撒いてしまおうかとおもいましたが、このことを知りもう少し様子を見ることにしました。

初夏を前に虫たちの活動も活発になってきて憂鬱な面もありますが、驚くほど精巧に緻密につくられているダンゴムシ一匹をじっくり見るだけでも神様の創造の素晴らしさに感動します。

やっぱりこれが進化によって偶然出来たとはわたしには思えません。

みなさんはどうですか? 

(小山晶子牧師人)

2サムエル 15:1-12

「アブサロムは、さばきのために王のところにやって来る、すべてのイスラエルの人にこのようにした。アブサロムはイスラエルの人々の心を盗んだ。」(15:6)

アブサロムは優れた政治家でした。

彼は、毎朝早く起きて町の門へ出かけました。王のところへ訴えを持ち込む者を見つけると、そのつど呼び止めて、さも関心があるように訴えを聞くのです。だれに対しても、こんなふうに気をそそるのでした。「この件では、君のほうが正しいようだな。しかし、気の毒だが、王の側には、こういう訴えに耳を貸してくれる者はいないだろう。私が裁判官だったら、訴えのある人はみな、私のところへ来れるし、もちろん、公平な裁判もできるのだが。」(2-4節LB)

彼は人の心を掴むことに優れていましたが、神を恐れる心がありませんでした。

人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サム16:7)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル 14:25-33

「アブサロムは二年間エルサレムに住んでいたが、王の顔を見ることはなかった。」(14:28)

ダビデ王は、アムノンを殺したアブサロムを、本当の意味で赦すことができていなかったのかもしれません。

アブサロムがエルサレムに戻ってくることを許可したものの、顔は見たくないと、親子の関係を修復することを願いませんでした。

その結果、この後、アブサロムの謀反が起こります。

ちいろば先生(榎本師)はこう言います。

「神による和解でなければそこからは真実の交わりは回復されるものではない。」

残念ながら、ダビデ王もアブサロムも神の御前に悔い改めたとは書いてありません。

アブサロムはヨアブを動かして、ダビデと面会しますが、形式的なものに終わってしまいます。

本当の和解はただ、イエス・キリストから来ます。

聖霊の力を求める必要があります。