ローマ 1章

「私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」(1:16)

「福音」は3節にあるように、神の御子、イエス・キリストに関することです。

1コリント15章にあるように、聖書の示すとおりにイエス・キリストが私たちの罪のために死なれたこと、葬られたこと、聖書に従って三日目によみがえられたことを告知すること、宣言することです。

というのは、神の義は、福音の中で啓示されるから。神の真実から人間の忠実へ。聖書にあるように、『義人は信仰によって生きる』」(17節私訳)

神は、この世界の問題の根源である罪、死、滅び、暗やみの力をイエス・キリストによって打ち破られました。

「神の真実から人間の忠実へ」という意味は、この神の真実に対して、人は5節にあるように、「信仰の従順」をもって応答しなければならないからです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

使徒 28章

「パウロは、まる二年間、自費で借りた家に住み、訪ねて来る人たちをみな迎えて、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」(28:30,31)

使徒の働きは、ローマ帝国の中心地で、少しもはばかることなく、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えたということで結ばれています。

この後、パウロがどうしたのかは聖書に記されていません。

おそらく、さらに伝道旅行に出かけ、そして、牧会書簡(テモテ、テトス)を書いたと思われます。

いずれにせよ、使徒の働きは今も継続していると言っていいと思います。

私たちは使徒の働き29章を書いているのです。

大事なのは、私たちもまた、パウロと同じように、大胆に、一人でも多くの人に、「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教え」ることです。

使徒 27章

「こう言って、彼はパンを取り、一同の前で神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。それで皆も元気づけられ、食事をした。」(27:35,36)

そもそもの問題は、

「百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。」(11節)

ことから始まりました。

だからパウロは言いました。

「皆さん。あなたがたが私の言うことを聞き入れて、クレタから船出しないでいたら、こんな危害や損失を被らなくてすんだのです。」(21節)

嵐の中、助かる望みも今や完全に絶たれようとしていました。

人々は、長い間、食べていませんでした。

パウロは、嵐の中で意気消沈した人々に食事をするよう勧めます。

まず、彼が食前の感謝の祈りをして、食べ始めました。

「それで皆も元気づけられ、食事をした。」と言います。

パウロのように、恐れではなく、信仰に生き、周りの人に元気を与えることができますように。

使徒 26章

「それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」(26:18)

パウロの使命、それは、人々の目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせることでした。

その方法は、イエス・キリストへの信仰によって、罪の赦しを得て、神の御国の民の一員となることでした。

それで、パウロは

キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになると話したのです」(23節)

と言います。

ローマの総督フェストゥスはパウロの言っていることが理解できず、パウロの頭がおかしくなっていると言います。

しかし、パウロは怯まずに言います。

私は、真実で理にかなったことばを話しています。」(25節)

私たちは語り続ける使命があります。

使徒 25章

「もし私が悪いことをし、死に値する何かをしたのなら、私は死を免れようとは思いません。しかし、この人たちが訴えていることに何の根拠もないとすれば、だれも私を彼らに引き渡すことはできません。私はカエサルに上訴します。」(25:11)

使徒パウロは最高法院を前に言いました。

私は今日まで、あくまでも健全な良心にしたがって、神の前に生きてきました。

前の総督フェリクスにも言いました。

私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。」(24:16)。

ですから、総督フェストゥスを前にしてはっきり言うことができました。

私は、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、カエサルに対しても、何の罪も犯してはいません」(8節)

どんなに正しく生きていても、パウロのように翻弄されることがあります。

しかし、その背後にはローマで福音を伝えるという神の深いご計画がありました。

使徒 24章

「数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。」(24:24)

使徒パウロは、総督フェリクス夫妻に個人伝道をしました。

パウロが何を語ったかは25節に明白です。

パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり

脅すことは良いことではありませんが、真理を語らないことはもっとよくありません。

人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。(ヘブル9:27参照)

イエス・キリストを信じることなく、来たるべきさばきからの救いはありません。

総督フェリクスはキリスト教信仰について知りたいと願い、パウロから話を聞きました。

しかし、彼の動機は「金をもらいたい下心」(26節)程度のものでした。

ですから、「折を見て」と、信じる機会を逸してしまいました。

「折を見て」いると機会を失います。今日が救いの日です。

使徒 23章

「パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。「兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです。」」(23:6)

パリサイ人とサドカイ人の対立は、旧約聖書と新約聖書の間の中間時代に背景があります。

サドカイ人は祭司など、神殿を司る特権階級で、時の権力者たちでした。

彼らはリベラルな信仰を持っていて、異教徒と妥協しても、自分たちの権益を守ろうとしていました。

これに対してパリサイ人は、敬虔な信仰を持ち、異教徒との妥協を望みませんでした。

「死者の復活という望み」、ここではエゼキエル37章に見られるイスラエルの国の再興のことと考えられますが、それが論争を引き起こしました。

昔も今も、「復活」は論争の的です。

しかし、イエス・キリストの復活は福音の中心です。

「鎌倉殿の十三人」

歴史が好きなうえにご近所の鎌倉が主な舞台ということもあり、「鎌倉殿の十三人」という大河ドラマに少々はまっております。

先日は和田合戦が描かれ、鎌倉の市街地で激戦が繰り広げられたこと、境川に和田一族234人の首がさらされたことなどを知り、言葉を失いました。

総じて独裁者は猜疑心の塊になることを歴史は教えてくれますし、独裁者でなくとも人間関係における猜疑心という歪みは悪魔の常套手段であるのだと思います。

現代における独裁国家のリーダーたちも恐らくそうなのだろうと思うとすでにこの世にいる時から彼らは地獄を味わっているのだとも思うのです。

そんな隣国からのミサイルのニュースが流れる最中、栄シャローム福音教会では賛美集会が行われました。

皆で声を合わせて主に賛美を捧げているとき、ああ、ここは天国だなあと静かな感動を覚えました。

地上での人生が終わる前から、天国の体験ができることほど素晴らしいものはありません。

賛美集会の様子を是非YouTubeでご覧いただき幸いな時間を共有していただければ嬉しいです。

全ての栄光を主にお捧げします。 

(小山晶子牧師夫人)

使徒 22章

「あなたはその方のために、すべての人に対して、見聞きしたことを証しする証人となるのです。」(22:15)

「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(1:8)

とイエスが言われたように、使徒たちの使命はイエスの証言人となることでした。

そして、使徒パウロの使命もまたイエスの証言人となることでした。

イエスを信じる者は皆、自分が見聞きしたことを証する証言人という使命があります。

この箇所で具体的に使徒パウロは三つのポイントで証言します。

第一に過去についての証言。

彼は熱心なユダヤ教徒でキリスト教徒を迫害していました。

第二に回心についての証言。

ダマスコ途上でキリストに出会い、アナニヤを通してバプテスマを受けました。

第三にこれからについての証言。

異邦人宣教に遣わされていると。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

使徒 21章

「彼らがパウロを殺そうとしていたとき、エルサレム中が混乱状態に陥っているという報告が、ローマ軍の千人隊長に届いた。」(21:31)

聖書は言います。

パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない」と言った。」(19:21)

パウロはローマに行かなければなりませんでした。

そして、その道のりがどんなに険しくても、神が必ずパウロをローマへと連れていかれることを私たちは見ます。

この箇所では、神はローマ軍を動かしてパウロを助け出しています。

神に不可能なことはありません。

だから、パウロは言います。

あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」(ピリピ1:6)