ヨハネ 21章

「こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。」(21:9)

中近東では、一緒に食事をするということは、新しい方法で、互いに属することを意味しました。

福音書をみると、イエス様がいろいろな人たちと一緒に食事をする場面がたくさん描かれていますが、そのような意味があります。

ユダヤ人たちは、メシアが来たら、そのような祝宴があると考えていました。

メシアが食卓に着き、イスラエルの民は共に食卓に着き、食事をする。

神の民として一つとなり、イスラエルの贖いを祝う。

最後の晩餐も、そのような意味がありました。

そして、この時、イエス様が弟子たちのために朝食を用意されていたのもそういう意味です。

十字架の暗い影は、新しい朝の光に変えられました。

そして、私たちも、この朝の食事の祝宴に招かれています。

イエス・キリストがよみがえられたからです。

ヨハネ 20章

「十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」(20:24)

トマスはいるべき所にいなかったために、復活したイエス様に出会うことができませんでした。

トマスはそんな自分のことは棚上げして言います。

私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」(25節)

イエス様が再び来られた時、今度はトマスはいるべき場所に一緒にいたので復活のイエス様に出会うことができました。

イエス様はトマスに言います。

あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)

トマスは信仰告白をもって応答します。

私の主、私の神よ。」(28節)

イエス様に出会うために、いるべき所に一緒にいることは大事です。

ヨハネ 19章

「それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。」(19:28)

聖書が私たちに教えていることは、イエス・キリストは十字架によって人間の罪の問題を、解決済みにされたということです。

イエス様は確かに

完了した」(30節)

と言われました。

神はただ人を愛しているからと言って、人を受け入れることはできませんでした。

神は神ですから、正しい裁きをゆがめることはできません。

罪の報酬は死です。

イエス・キリストは十字架の上で、私たちの身代わりとなって正しい裁きを受け、死という報酬を支払う必要がありました。

ですから今、全ての人は選ぶことができます。

十字架ですでに支払われたイエス・キリストを信じるか、信じないか。

人間は、いくら努力しても、どんなに修行を積んでも、神に受け入れていただくのにふさわしい状態に、自分をもっていくことはできません。

ヨハネ 18章

「そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」」(18:37)

ピラトは当時のローマ帝国を代表しています。

イエス様はご自身を「王」と言われましたが、その王国は「この世から出たものではありません。」(36節直訳)と言いました。

イエス様のポイントは、「神の国の価値観」である「真理」は「この世の価値観」とは違うということです。

ピラトが「真理とは何なのか」と言ったように、「この世の価値観」は絶対では なく、そこには「真理」はありません。

しかし「神の国の価値観」は「真理」であり、絶対です。

昔も今もこれからも変わりません。

神の国の民は、神の声、聖書の御言葉に聞き従います。

神の国の価値観を優先できますように。

ヨハネ 17章

「これらのことを話してから、イエスは目を天に向けて言われた。」(17:1)

イエス様はこれが弟子たちとの最後の夜となることを知っていました。

それで、この後に向けて、弟子たちを備えさせるために模範を示されました。

それは、弟子たちの足を洗うことと、祈ることでした。

「目を天に向けて言われた」理由は、この地しか見ていないならば、行き詰まってしまうことを身をもって教えるためだったのかもしれません。

いずれにせよ、イエス様が弟子たちに教えた生き方は、互いの足を洗い合い(13:14)、目を天に向けて祈ることです。

聖書は言います。

キリストが死からよみがえられた時、あなたがたも共によみがえったのですから、天にある無尽蔵の富と喜びに目を向けなさい。そこでは、キリストが栄誉と力とを帯びて、神の右の座についておられます。地上のことをあれこれ気に病まず、天上のことで心を満たされていなさい。」(コロサイ3:1,2LB)

ヨハネ 16章

「今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。」(16:24)

この箇所でイエス様は、イエス様の名によって大胆に祈り求めるように命じています。

それでキリスト者は、祈りの最後に、「イエス様の御名によってお祈りします」と祈ります。

イエス様の御名に権威があります。

イエス様の御名に力があります。

そして、このようにイエス様の御名によって祈ったことの答えは、イエス様の栄光となります。

「イエス様の御名によって」祈った祈りの答えだからです。

神は私たちの祈りを聞かなければならないということではありません。

神は神です。

しかし、神は私たちの「イエス様の御名によって」祈る祈りをあえて用いられます。

このようにして、天においても地においても、イエス・キリストの御名があがめられます。

さむい、、、

大好きなアイスコーヒーに手が伸びないくらいの突然の寒さ。

皆様いかがお過ごしでしょうか。

きょうは礼拝堂のピアノを数年ぶりに調律していただいています。

わたしは二階の大きい方の子ども部屋でこれを書いているのですが下からは絶えずピアノの音が聞こえていて、それが柔らかい音色のマイナーコードなので、しとしとと降る雨の音と相まってなんともいい感じなのです。

先日小坂忠さんのメモリアルアルバムが発売され、車でよく聴いています。

『恵みの雨』という曲は秋本ビルでの開所式で忠さんが歌ってくれたこともあって特にお気に入りです。

神の恵みの雨が 音もなく降る
乾ききった地の上 世界のまちに
神のいのちの雨が 豊かに降る
冷たく冷えた愛の 心を燃やす
全ての国の すべての人を
つつみこんでいる キリストの愛
雨のように今日も ふりつづく
(小坂忠:『恵みの雨』より)

目を瞑って雨音に耳を澄ませ、イエス様の愛の音を聴く静かな時間、、、こんな時間が過ごせるなら雨の日も悪くないですね。
(小山晶子牧師夫人)

ヨハネ 15章

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木にとどまっていなければ、自分では実を結ぶことができないのと同じように、あなたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。」(15:4)

枝は幹からしか、栄養を受け取ることができません。

イエス・キリストを信じるというのは、枝が本来の幹につながるようなものです。

そもそも、人は、幹につながっている枝として造られたはずなのに、アダムとエバが、神に背を向けてしまったために、人はそのままの状態では離れているのです。

どんなに他の何かで誤魔化そうとしても、枝は枝であり、幹につながることがなければ、満たされることはありません。

ですから人は、イエス・キリストを自分の救い主として信じ、幹につながる必要があります。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨハネ 14章

「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(14:1)

ヨハネの福音書14章は、エリザベス女王の葬儀の時にトラス首相が朗読した有名な箇所です。

大事な点は誰を信じ、誰に従うかということです。

イエス・キリストを信じ、イエス・キリストに従うことが天の御国への道だと言います。

イエス・キリストが、

あなたがたは心を騒がせてはなりません。

と言われたのには理由があります。

27節で再び、このように言われています。

わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

当時の世が与えるという平和は、パンとサーカスによる「ローマの平和」と呼ばれた見せかけのものでした。

イエス様が与える平和は見せかけではなく、「助け主」(26節)、聖霊による平和です。

ヨハネ 13章

「互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」(13:35)

キリスト教会の特徴は「愛」だとイエス様は言われました。

批判し合っているならば、誰がイエス様の弟子だと認めるだろうかと言われたのです。

キリストは「新しい戒め」として、

互いに愛し合うこと」(34節)

を命じられました。

残念ながら教会の歴史を振り返るならば、なおざりにされてきた感が否めません。

キリストの弟子であることを人々が認めるためには、「互いに愛し合うこと」だと言われたのにも関わらず、分裂の歴史が繰り返されてきました。

イエス様は弟子たちの足を洗い、こう言われました。

主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。」(14節)

すなわち、欠点を批判し合うのではなく、それを補い合うことを命じられたのです。