ルカ 21章

「あなたがたの心が、放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされていて、その日が罠のように、突然あなたがたに臨むことにならないように、よく気をつけなさい。その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。しかし、あなたがたは、必ず起こるこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈っていなさい。」(21:34-36)

イエス様はこの世の終わりを明言されました。

「その日は、全地の表に住むすべての人に突然臨むのです。」(35節)

私たちは、その日がいつ来ても大丈夫な生き方を心がけるよう求められています。

「放蕩や深酒や生活の思い煩いで押しつぶされ」

ているならば、目を覚ましているとは言えません。

私たちは天で神のみこころが行われているように、この地上で神のみこころを行うために生きています。

神のみこころは、祈ることなく行うことはできません。

日々、

「御国が来ますように」

と祈る姿勢が大切です。

ルカ 20章

「彼らが死ぬことは、もうあり得ないからです。彼らは御使いのようであり、復活の子として神の子なのです。」(20:36)

サドカイ人とは祭司を中心とした特権階級の人たちのことです。

彼らはモーセ五書(律法)以外の旧約聖書を認めず、唯物論者で、復活を否定していました。

それでイエス様はあえてモーセ五書から答えられます。

「モーセも柴の箇所で、主を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と呼んで、死んだ者がよみがえることを明らかにしました。」(37節)

「昔アブラハムの神だった」ではなく、今も「アブラハムの神」であると今も生きているかのごとく語りました。

死が終わりではなく、死後の世界が存在し、復活があることを明確に語られたのです。

この世がすべてではありません。

永遠の視点をもつ必要があります。

今、いかに生きるかはとても重要です。

なぜなら、「神に対して、すべてが生きています。」(38節MSG)

ルカ 19章

「それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ。」(19:44)

イエス様はエルサレムを見て

泣いて、言われた」(41節)

と言います。

もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら──。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。」(42-44節)

この後、四〇年も経たず、エルサレムは包囲され、ローマ帝国に攻められ、滅ぼされます。

その根本的な問題を、イエス様は、

神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ

と言われました。

神の訪れの時を私たちは意識する必要があります。

今こそ、恵みの時、今こそ救いの日です。

ハヤのジャンプ

夕方、久しぶりにいたち川沿いの散歩に出かけました。

まだ若干蝉の声が聞こえてはいたものの、少しづつ葉っぱも秋色に変化し、爽やかな風が心地よく吹いていました。

まあるくころんとかわいいドングリを拾ったり鳥の声に耳を傾けたり。

ふと川面に目をやると夕日の輝きの中にキラキラと光るものが動いています。

よくみると小さな魚があちこちでジャンプしているのです。

地元加古川の河口でぼらがジャンプしているのは見たことがありましたが、ちいさなハヤがあんなに高く飛べるなんて。

調べてみると小型の虫を捕食しているとのこと。

てっきり遊んでいるのかと思ったら真剣な食事時間だったようです。

ゆったりとした時間の流れは、短くてもリフレッシュには十分でした。

神様の創造物はいつもわたしたちを元気づけてくれますね。

帰り道に元気のないノコギリクワガタ(恐らく)の雄を捕まえたので「くわ太」と名付け虫ゼリーを与えて様子を見ています。

腹の方を見るとGとほぼ同じ、、、。

でもクワガタとGとの間には見えない大きな溝が、、、。

その理由は見つけられないまま、今年も少しづつ秋が深まっていきます。

 (小山晶子牧師夫人)

ルカ 18章

「あなたがたに言いますが、義と認められて家に帰ったのは、あのパリサイ人ではなく、この人です。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのです。」(18:14)

聖書に出てくるパリサイ人は、旧約聖書と新約聖書の間、中間時代に誕生しました。

当時、アレキサンダー大王の東方遠征により、地中海世界はギリシア化(ヘレニズム)されていきました。

その中で、保守的な信仰を守ろうとした敬虔主義の人たちにその起源があります。

そんなパリサイ人たちの問題はこのパリサイ人の祈りに表されるように、自分たちの律法の行いに土台をおいていたことです。

これと対照的なのは取税人の祈りです。

神様、罪人の私をあわれんでください。」(13節)

当時の取税人はローマ帝国に代わって税を徴収していた人々で、蔑まれていました。

結局、自分の力に過信するか、神の恵みに信頼するか、その違いです。

今日は主の日。共に主の恵みによって礼拝を捧げましょう。

ルカ 17章

「ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降って来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。人の子が現れる日にも、同じことが起こります。」(17:29,30)

聖書はこの世が終わることを預言します。

イエス・キリストが再び来られる、再臨を約束しています。

ロトがソドムから出て行ったその日に裁きがくだったように、キリスト者がこの世から一挙に引き上げられる時、大患難時代と呼ばれるこの世に対する裁きがもたらされます。

「人々は食べたり飲んだり、売ったり買ったり、植えたり建てたりしていましたが、」(28節)

とあるように、思いがけない時にその日はやってきます。

主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(2ペテロ3:9,10)

ルカ 16章

「イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」(16:15)

「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた。」(14節)

と言います。

パリサイ人たちは、自分たちは力、富、権威があるから自分たちの生き方は正当化されていると考えていました。

しかし、イエス様は、

「神はあなたがたの心をご存じです」

と言われました。

イエス様はこの後、金持ちとラザロのたとえ話を通して、生前の社会的立場が、死後反転しまうという転換によって現状を考えさせます。

そもそも、人は生まれた場所や状況によって立場が違います。

ですから、今、自分が与えられた立場や富を全て自分の努力の結果とし、当然受けるべきものとするべきではありません。

死後の世界で全く別の環境に置かれたならばどうでしょうかとイエス様は問います。

ルカ 15章

「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」(15:10)

ルカの福音書15章には有名な三つの譬え話が登場します。

「失われた羊」、「失われた銀貨」、そして「放蕩息子」の話です。

共通しているのは、失われたものが見つかった喜びです。

それは、神が失われた人(罪人)を見つけ出して救うために、どれほど気にかけておられるか、そして、見つけたら、どれほど喜ばれるかという話です。

失われた人(罪人)とは、放蕩息子のように神に背を向けた人のことです。

すべての人はアダムとエバが神に背を向けて、禁じられた実を食べてから、失われた状態です。

誰もが悔い改めて神に立ち返る必要があります。

そして、一人の人が悔い改め、神に立ち返るたびに天の御国ではパーティーが催されます。

イエス様のポイントは、天で行われているように、この地でも同じように喜び祝うものだということです。

ルカ 14章

「すると主人はしもべに言った。『街道や垣根のところに出て行き、無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。」(14:23)

毎週の主日礼拝は、ある意味キリストの宴会に招かれているようなものです。

私たちは、招待客との交わりも楽しみますが、何よりも招いてくださったキリストの臨在を楽しみます。

しかし、この箇所にもありますように、招待に応じるかどうかは一人一人に委ねられています。

自分の都合を優先すれば、他の人が体験しても、自分はその機会を失ってしまいます。

神は恵みに溢れていますが、神の招きに応じなければ体験することはできません。

神は招きに応じなかった人を無理強いせず、

急いで町の大通りや路地に出て行って、」(21節)

へりくだらされ、必要を感じている人たちを招くように主のしもべに命じています。

私たちは、人々を招き、神の家、教会をいっぱいにする使命があります。

主はすべての人を招待しています。

ルカ 13章

「見なさい。わたしは今日と明日、悪霊どもを追い出し、癒やしを行い、三日目に働きを完了する。しかし、わたしは今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない。預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはあり得ないのだ。」(13:32,33)

悪霊を追い出し、病気を癒すイエス様の活動は、エルサレムへの旅路であることが示されます。

エルサレムへの旅路は預言者として死ぬこと、すなわちカルバリの十字架を意味すると言います。

もっとも、

「三日目に働きを完了する」、

「今日も明日も、その次の日も進んで行かなければならない」

ということは、復活、昇天をほのめかしています。

つまり、イエス・キリストは、私たちの罪のために十字架で死に、葬られますが、三日目に死の力を打ち破ってよみがえり、天に昇り、栄光の御座に着座されたということです。

救いの御業は成し遂げられました。

「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。」(ローマ10:13)