詩篇 102篇

「このことが、後の世代のために書き記され、新しく造られる民が主を賛美しますように。」(102:18)

「このこと」とは、

なぜなら、主はシオンを建て直し、その栄光のうちに現れ、窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされないからです。」(16,17節)

という内容を受けていると思われます。

そもそも、この詩の表題は、

苦しむ者の祈り。彼が気落ちして、自分の嘆きを主の前に注ぎ出したときのもの。

とあります。

詩人は言います。

さあ、こう伝えなさい。主は天から見下ろし、奴隷として死ぬ運命にある民のうめきを聞いて、解放してくださったと。」(19,20節LB)

私たちは次の世代が主を賛美することができるように、神の御業を語り継いでいかなければなりません。

主は今生きておられ、今も私たちの祈りに応えて、御業を行われます。

詩篇 101篇

「恵みとさばきを、私は歌います。主よ。あなたにほめ歌を歌います。」(101:1)

メッセージ訳では、この箇所をこう訳しています。

私のテーマソングは、神の愛と正義です。神よ、あなたに向かって私は歌っています。

神の国の国民のテーマソングは、「神の愛と正義」だと言います。

具体的には2節にこのように詩人は歌っています。

私は潔白な道を歩もうと心がけていますが、神の助けなしには何もできません。特に、御心にそった歩みをしたいとせつに願う家庭の中でこそ、助けていただきたいのです。」(LB)

まず、日常の生活の中でこそ、神の助けをいただきながら、神のみこころにそった歩み、自分ができる最善を行なっていくことが、「神の愛と正義」をテーマソングにして生きていく者の姿です。

お好み焼き

次男が大学の寮に入り、我が家は人間三人と猫二匹+亀一匹の生活がスタートしました。4月1日にあわただしく準備をして入寮し、ようやくほっと一息、、、ともいかず、なにかと忙しい毎日ではありますが、偏食だった次男がいないことで食事作りは少し楽になった部分もあります。特にお好み焼きができるようになって(ありがたいことに英児先生は週一でお好み焼きが食べたいと言ってくれるので)助かります。私が作るお好み焼きはたくさんのキャベツが入っているのですが、いまは春キャベツのシーズンで特に美味しくできるような気がします。種まくものに種を与え、地に実りを与え、私たちに食べるもの、飲むものを豊かに備えてくださる神様の恵みを、春はたくさん感じることができるのでウキウキします。新ニンジン、新ジャガイモ、新玉ねぎ、真っ赤ないちご。品種改良をすることはできても、人は無から有を作り出すことはできません。それができるのは創造主である神様だけです。主の偉大さを今週も体感することができますように!!今週は受難週です。 (小山晶子牧師夫人)

詩篇 100篇

「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、御名をほめたたえよ。」(100:4)
 
メッセージ訳では、この箇所をこう訳しています。

『ありがとう』というパスワードで、入りなさい

神の臨在の中に入るパスワードは「ありがとう」です。

私たちは、プラスに見えることも、マイナス見えることも、全てを益としてくださる神を信頼して、全てのことを感謝することを通して、神の臨在の中に入ることができます。

神の臨在の中に入るならば、

主はいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。その真実は代々に至る。」(5節)

という世界を体験します。

主なる神が、良い神であり、信実の愛で私たちを愛し続ける、真実の神であることを体験するようになります。

主の信実の愛とその真実はとこしえまで続きます。

今日は主の日、キリストがロバの子に乗ってエルサレム入城されたことを覚えるPalm Sunday(棕櫚の主日)。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 99篇

「主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座についておられる。」(99:1)

「王」とはその国の支配者、もっとも権威を持つ者、王座を占める者、最高権力者です。

良い王ならばいいのですが、王やそれに近い存在が悪いと悲劇であることは、今の世界情勢のみならず、人類の歴史を学んでいくならば誰もが感じることだと思います。

国という枠だけでなく、私たちの人生においてもそう言えると思います。

だれの影響を受けているか、誰の言葉に耳を傾けているかが結局のところ何に支配されているかにつながっていきます。

私たちの王、主はイエス様です。
それはイエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、全ての口が『イエス・キリストは主である』と告白して父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9‐10)

詩篇 98篇

「確かに、主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、公正をもって国々の民を、さばかれる。」(98:9)

悪魔はアダムとエバを誘惑するときにこう言いました。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになる。』(創世記3:5)

これこそがこの地上を地獄のようにする最大の、そして唯一の理由だと思います。

それぞれがそれぞれの善悪で生きていることによって人間は争い、愛をなくし、本来神様の意図した姿とはかけ離れた歩みをしてしまっているのです。

謙遜になってイエス様を受け入れ、私たちが握りしめてしまっている善悪の判断を手放して神様に委ねる時、回復と和解が与えられ、「自分の善悪」ではなく「イエス様が何を願っておられるか」を大切にするようになります。

「自分の義」という餌をサタンに与えて、太らせてしまってはいないでしょうか。

詩篇 97篇

「主を愛する者たちよ。悪を憎め。主は聖徒たちの祈りを守り、悪者どもの手から、彼らを救い出される。」(97:10)

悪を憎むことはキリスト者の生き方です。

しかし気をつけなければならないのは私たちがいつも完璧に善悪の区別をつけられるわけではないということです。

個人的な感情や願いがあるとそれがフィルターとなって私たちの心を曇らせてしまいます。

使徒の働きの中にガマリエルというパリサイ派の律法学者がでてきます。

パウロの先生だったといわれる人物ですが、彼の言葉が私たちに良い指針を与えてくれると思います。
そこでいま、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対するものになってしまいます。

詩篇 96篇

「確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる。主は、義をもって世界をさばきその真実をもって国々の民をさばかれる。」(96:13)

神様が地をさばく、ということばは恐ろしく感じる人もいるかもしれませんが、今のような状況では大きな慰めの言葉のように感じます。

とても理不尽に見える状況や悲しみ、苦しみが放置されているように見えるとき、いったい神様はどこにいるのだろうと絶望的な思いにさいなまれます。

でもこの箇所にあるように、主は必ず主の義をもって世界をさばかれます。

誰一人逃れることはできません。

どんなに地上で権力を持っていても大金持ちでも、決して逃れることはできないのです。

わたしたちは裁く側ではありません。

完全でもありません。

でも主の義は完全であり正しく、そのことに信頼し委ねることのできる私たちは幸いです。

詩篇 95篇

「さあ、主に向かって、喜び歌おう。われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。感謝の歌をもって、御前に進みゆき、賛美の歌をもって、主に喜び歌おう。主は大いなる神であり、すべての神々にまさって、大いなる王である。」(95:1-3)

この箇所を読むたびに、ミクタムの赤本一番にある賛美を思い出します。

まさにこの箇所にメロディをつけたものなのですが、生き生きした希望にあふれた曲でどんなに落ち込んでいてもこの賛美を歌うと心が元気になっていきます。

賛美は不思議です。

神様に捧げているはずなのに、気付くと自分が元気になっているのです。

賛美を捧げる時に、神様に愛されていることを体験します。

賛美を捧げる時にどんな状況も主にあって最善に導かれることを確信することができます。

いま落ち込んでいるなら、ぜひ主に賛美を捧げてください。

生ける水の川が流れ出るのを体験するなら、今がベストタイミングです!

詩篇 94篇

「わたしのうちで思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばせてくださいますように。」(94:19)

思い煩いたくないと思っても、思い煩ってしまう。

心配しなくて済むならどんなに楽かと思っても、心配ばかりしてしまう。

わたしたちは神様に委ねればよいとわかっているのに自分で思い計り、自分の考えや判断にどれほど限りがあり、無益であるかを思い知らされます。

もし主の助けの手が差し伸べられなかったら今頃私は死んでいたことでしょう

と17節で詩人は語っています。本当に私たちを愛し、心配し、計画を持ち、導いてくださるのは主だけであることを、私たちは人生をかけて学んでいくのだと思います。

私たちに最も影響を与えるのが、「誰か」の言葉ではなく「主の」言葉でありますように。

主の語られる声に耳を傾けるためにきょうも聖書の御言葉を読みましょう!