ルカ 12章

「自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」(12:21)

イエス様は言われました。

自分の財産を売って施しをしなさい。自分のために、天に、すり切れない財布を作り、尽きることのない宝を積みなさい。天では盗人が近寄ることも、虫が食い荒らすこともありません。あなたがたの宝のあるところ、そこにあなたがたの心もあるのです。」(33,34節)

しかし、多くの人はイエス様の譬え話に出てくるこの金持ちのように財産を蓄えれば、何の心配もなく余生を楽しめると思い込んでいるのではないでしょうか。

しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」(20節)

私たちの命は神の御手の中にあります。

天に宝を積む人生を歩むことができますように。

ルカ 11章

「わざわいだ、律法の専門家たち。おまえたちは知識の鍵を取り上げて、自分は入らず、入ろうとする人々を妨げたのだ。」(11:52)

パリサイ人や律法の専門家たちの問題は何だったのでしょうか。

彼らは道徳的で、模範的で、勉強熱心な人たちでした。

しかし、裁きの態度で人々と関わり続けました。

ヘンリ・ナーウェンという神学者がこんなことを言っています。

裁いたり、非難したり、評価したり、等級をつけたり、レッテルを貼ったり、このようなことのために私たちはこの世に遣わされたのではありません。人々についてこうだと決めてかかり、人に、どこが間違っていて、どう変えるべきかを教えなければならない、といった態度で何かをしようとするなら、私たちはさらに人々の間を引き裂くだけです。

使徒パウロは「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」(1コリント8:1)と言います。

私たちは「知らない」ということを謙遜に認め、愛に生きることです。

ルカ 10章

「ちょうどそのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主であられる父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを、知恵ある者や賢い者には隠して、幼子たちに現してくださいました。そうです、父よ、これはみこころにかなったことでした。」(10:21)

当時の人は知っていると思っていました。

しかし、本当の意味で神がどういうお方なのか、イエス・キリストを通してでなければ知ることはできません。

神がご自身を啓示されないかぎり、人は神について本当に知ることはできないのです。

ですから、イエス様は言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

だから使徒パウロは言いました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。」(Ⅱコリント4:5)

ルカ 9章

「すると、イエスは彼に言われた。「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません。」(9:62)

メッセージ訳では今日のイエス様の言葉をこのように訳しています。

先延ばしにしてはいけない。後ろ向きに考えてはいけない。神の御国を明日に延ばすことはできない。今を生きよう。

「今を生きよう」と和訳した英語は「今日をつかめ」(Seize the day/Carpe diem)です。

イエス様は今を生きることを大切に教えました。

ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」(マタイ6:34)

与えられた一日一日を大切に、先延ばしにせず、神の御国に生きることができますように。

ルカ 8章

「「あなたの家に帰って、神があなたにしてくださったことをすべて、話して聞かせなさい。」それで彼は立ち去って、イエスが自分にしてくださったことをすべて、町中に言い広めた。」(8:39)

一人の人が悪霊から解放されるためにたくさんの豚が犠牲になりました。

それを見た人々はイエス様に「自分たちのところから出て行ってほしいと願った」(37節)と言います。

中澤師はこう解説します。

「イエスのいやしが経済的な痛みを伴うものであったとき、人々はイエスの奇蹟を歓迎しなかった。」

神の目には一人一人は高価で貴く、事実、その命でさえも捧げてくださいました。

一人の人の魂が救われることよりも、大事にしてしまっているものがあるでしょうか。

支払わなければならない犠牲のゆえに、イエス様を追い出すことがありませんように。

興味深いことに解放された人は「町中に言い広めた」と言います。

「イエスが自分にしてくださった」ライフ・ストーリー(証)を広めましょう!

母校を覚える日

きょう十一月七日は私の母校東京基督教大学を覚えていただく日となっています。

せっかくですので少し紹介させてください。

東京基督教大学は一九九〇年に設立された日本で唯一の福音主義プロテスタント超教派の四年制神学大学で、聖書のみを信仰と生活の唯一の規範としています。

学生も教職員も全員クリスチャン。

文科省が認可している日本で一番規模の小さな大学です(敷地は広いですよ)。

学部は神学部のみですが国内外のミッション系大学とも提携していますし海外からの学生も多いです。

リラのメンバーともここで出会いました。

教団教派がみな違うのですがキリストにあって一つであるということの素晴らしさを体験してきました。

この四月から理事長に就任した朝岡勝先生は五〇代。

信仰者としても学者としても尊敬していますし私自身にとっては中学時代から兄のような存在です。

素敵なチャペルで毎日礼拝がありますし、当たり前のように友人と祈り合える環境は人生の宝物となります! (小山晶子牧師夫人)

ルカ 7章

「ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」(7:47)

この女性は涙でイエス様の足をぬらして、自分の大切な髪でふき、自分の全財産かもしれない香油をイエス様の足に塗る必要はありませんでした。

しなかったといってイエス様にとがめられることもありません。

でも、彼女はそうせずにいられなかったのです。

強制された訳でも、仕方なくでもなく、そうしたかったのです。

イエス様に愛され、赦され、受け入れられたことを理解すればするほど、それに応答せずにいられないからです。

彼女はすべての罪を赦されています。だからこそ、彼女は私に惜しみない愛を示してくれたのです。しかし、自分はほとんど赦されていないと思い込んでいる人は、私をほとんど愛しません。」(TPT)

今日は主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 6章

「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」(6:46)

イエス様を自分の人生の主としているならば、イエス様のいうことを行うはずです。

「聞いても行わない人」をメッセージ訳ではこんな風に訳しています。

もしあなたが聖書研究でわたしの言葉を使うだけで、それを生活に取り入れないなら、あなたは家を建てても基礎を省いてしまった間抜けな大工のようなものです。」(49節)

単なるいい話、道徳で終わらせてしまうならば、試練の水が押し寄せると崩れてしまいます。

だから、イエス様は言われます。

わたしがあなたに話すこれらの言葉は、あなたの人生の単なる補足や、あなたの生活水準を向上させるものではありません。それは土台となる言葉であり、人生を築くための言葉なのです。」(47節MSG)

聖書の御言葉は私たちの信仰と生活の唯一の規範です。

ルカ 5章

「すると、シモンが答えた。「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。」」(5:5)

シモン・ペテロは漁師でした。

イエス様はペテロに言いました。

深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい。」(4節)

ペテロは夜通し働いて、それでも何もとれなかったその直後でした。

「すでにやりましたが、何も起こらなかったのです。」

イエス様は、「でも、あなたは私とともにしたわけではなかった」と言われます。

同じ舟、同じ網。

しかし今回は、イエス様の御言葉、イエス様が一緒でした。

それは大きな違いでした。

ペテロが用いられた理由は、

「でも、おことばですので」

という信仰姿勢だと思います。

私たちも、

「でも、聖書の御言葉ですから」

と御言葉に生きる姿勢が求められます。

御言葉に生きるなら、ペテロと同じように神様の偉大な力を体験することができます。

ルカ 4章

「イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が周辺一帯に広まった。」(4:14)

悪魔は石をパンにするように、悪魔にひれ伏してこの世界の権力と栄光を受けるように、神殿の屋根から飛び降りて、御使いに助けさせるように誘惑しました。

これらの誘惑はまさにイエス様の力を行使させようとするものでした。

イエス様はこの誘惑にはっきりと「ノー」と言われました。

その理由をユージン・ピーターソンはこのように言います。

なぜなら、いずれの場合も、力は人間関係から抽象化され、外から押し付けられ、愛に関与することなく、非人間的に使用されようとしたからです。

イエス様が「ノー」と言った後、イエス様は御霊の力を帯びたと言います。

そして、イエス様はその力を飢えた人々を助けるために使われます。

虐げられている人のために正義を行うために使われます。

他者を助ける奇跡によって福音を宣べ伝えるために使われます。