ヘブル 13章

「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。」(13:8)

イエス様は、過去も現在も未来も変わることはありません。

ですから、福音書に出てくる内容が過去の話であっても、現在の私たちにそのまま適用できます。

そして、これからも適用し続けることができます。

聖書は言います。

「イエスはガリラヤ全域を巡って会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされた。」(マタイ4:24)

イエス様が教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされたのは二千年前の話です。

しかし、今も変わることがないイエス様は、今も教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされます。

そして、これからも、変わることなく、教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病、あらゆるわずらいを癒やされます。

ヘブル 12章

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。」(12:1-3)

信仰生活は短距離走ではなく、長距離走です。重要なのは、イエス様から目を離さないことです。心が元気を失い、疲れ果ててしまう時、私たちは十字架を忍ばれたイエス様のことを考える必要があります。私たちのために死なれたイエス様を考える必要があります。

ヘブル 11章

「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(11:1)

11章は信仰の章と呼ばれますが、まず信仰の定義を提示した後、いくつもの例によってこの信仰の定義が叙述されています。

メッセージ訳は一節の定義をこのように訳しています。

存在の基本的な事実は、この神への信頼、すなわち信仰が、人生を価値あるものにするすべてのものの下にある確固たる基盤であるということです。それは、目に見えないものに対する私たちの対処法です。

ユージーン・ピーターソンは「信仰とは、実践的な宗教の総括的な言葉である。」と言います。

つまり、信仰は一歩ずつ歩んで行く実践的なものということです。

信仰によってモーセは、

キリストのゆえに受ける辱めを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えました。」(26節)

これは、知性だけでは理解できない世界です。信仰によって生きることができますように。

ヘブル 10章

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。」(10:36)

救いは完全に神の働き、神の恵みの世界であり、人間の努力に依りません。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8,9)

神の約束にとどまる必要がある以上、忍耐が求められます。

神の約束されたものを頂きたいと願うなら、忍耐しなければなりません。」(LB)

聖書は言います。

あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。」(35節)

確信を投げ捨ててしまった人たちがいたのだと思います。解決策の一つはこれです。

ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。」(25節)

私たちは励まし合う必要があります。

ヘブル 9章

「キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。」(9:15)

罪の報酬は死であり、罪の贖いは死を要求します。

大祭司は年に一度だけ、血を携えることで「第二の幕屋」(至聖所)に入ることが許されました。

第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。」(7節)

しかしキリストは、

ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。」(12節)

聖書は明白です。

キリストは罪のための最高のいけにえ、最高の祭司です。

人は今、イエス・キリストによって至聖所に入ることができます。

大胆に恵みの座に近づき、礼拝を捧げることができます。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。