1ペテロ 4章

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(4:7)

聖書は明確に世の終わりが近づいていることを伝えます。

たとえ世の終わりが来なくても、私たちのこの世での人生の終わりは日々近づいています。

だから聖書は言います。

分別を持ち、身を慎んで祈りなさい。」(LB)

まず、何よりも目を覚まして、祈ること。

それから、愛し合うこと。

愛は多くの欠けた点を補い合います。

もてなし合うこと。

不平を言わず、気持ちよく助け合うこと。

神が託してくださった賜物を用いて仕え合うこと。

それぞれが賜物を受けているのですから」(10節)とあるように、賜物が与えられていない人はいません。

イエス・キリストは再び来られます。

いつ来られても大丈夫という生き方をすることができますように。

1ペテロ 3章

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。」(3:15,16)

説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」と聖書は言います。

理由を話せるように学ぶことは大事です。

しかし守りの姿勢になると、過剰な反応をしやすくなることも確かです。

脅威を感じると、人はどんな人の発言も攻撃のように感じ、敵に見えてきます。

ペテロはそんな私たちのことを理解してこのことを書いたのだと思います。

ペテロは、イエス様を捕らえに来た大祭司のしもべの耳を剣で切り落としました。

しかし、イエス様はその耳を癒されました。

ペテロは、そんなイエス様の姿勢をいつも心に留めていたのだと思います。

耳を切り落とさない。

剣を振りかざさない。

怒らない。

「柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって」

1ペテロ 2章

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」(2:9,10)

水のバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト者となるという意味は、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」となるということです。

暗闇から神の驚くべき光の中に入れられたということです。

神の民とされ、あわれみを受けているということです。

私たちはこのアイデンティティをしっかりと持つ必要があります。

そして、私たちはこの恵みをただ自分のものとするのでなく、一人でも多くの人に告げ知らせる使命が与えられています。

1ペテロ 1章

「彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。」(1:12)

旧約聖書と新約聖書の大きな違いは、イエス・キリストの誕生、十字架、復活です。

旧約聖書の預言者たちは、啓示を受けていても、実現を見ていませんでした。

しかし、新約聖書はその実現が描かれていて、私たちはこの新約聖書の時代に生きることができる恵みの中にあります。

これがどんなに素晴らしいことかは、天使たちでさえ見たいと願っていたという表現からも分かります。

天使たちと違い私たちはこの福音の傍観者ではありません。

私たちもまた、福音を告げ知らせる者としてこの地に生かされています。

ヤコブ 5章

「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」(5:16)

聖書は互いのために祈ることを奨励しています。

なぜなら、祈りは大きな力があり、驚くほどの効果があるからです。

神は神であり、神はジーニーのように私たちの願いを聞かなければならないわけではありません。

しかし、神は私たちの小さな祈りを用いて大きな御業をなされるお方です。

ですから、聖書は言います。

正しい人の祈りは大きな力があり、驚くほどの効果があります。」(LB)

「正しい人」とは、イエス・キリストを信じる者です。

人はただ、イエス・キリストの十字架の御業によってのみ「正しい人」となることができるからです。

エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると…雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(17節)

ヤコブ 4章

「あなたがたはむしろ、「主のみこころであれば、私たちは生きて、このこと、あるいは、あのことをしよう」と言うべきです。」(4:15)

長期的な計画をすることは悪いことではありません。しかし、神をないがしろにして、自分のことだけで頭がいっぱいになってしまうならば、人生の歯車は狂っていきます。

なぜなら、

あなたがたには、明日のことは分かりません。あなたがたのいのちとは、どのようなものでしょうか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それで消えてしまう霧です。」(14節)

聖書は私たちの目を覚まさせるかの如く厳しく言います。

あなたがたは高ぶって、むなしい計画で頭がいっぱいなのです。自分に頼っていては、決して神を喜ばせることはできません。ですから、何をすべきかわかっていながら行わないのは、罪だということを自覚しなさい。」(16,17節LB)

今という時に、神が導かれていることに従順することは大事なことです。

忘れがたき故郷

先週日曜日から数日間、父の退院や施設入居に伴う手続きのため実家に滞在しました。

といっても、ひと月以上前から両親とも別々の病院に入院しているため、誰もいない実家への帰省です。

私たちを出迎えてくれたのは一匹のG。

実家での最初の仕事はゴキジェット噴射となり少々の不安と共に忙しい日々が始まりました。

そのさなかのほんのわずかな時間でしたが、幼いころ住んでいた場所を30年ぶりに車で走りました。

こんなに道が狭かったことにまず驚きました。

見覚えのある苗字の表札がいくつもあり、幼いころの記憶が一気によみがえってきました。

夢中で蝉取りをしていた神社は、かつて蝉が大合唱していた大きな銀杏の木がバッサリと切られ、さびれていました。

過去と現在が混在している様に少し混乱しつつも、改めて神様の恵みを覚える時となりました。

良かったことも、悪かったことも、神様の御手の中ですべてが益となることを、歳を重ねるごとに、より感じるようになりました。

ここまで導いてくださった主に今週も信頼して歩んでいきましょう。

(小山晶子牧師夫人)

ヤコブ 3章

「義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」(3:18)

人の怒りは神の義を実現しないのです。」(1:20)

と言いましたが、平和をつくる人々によって実現すると言います。

平和をつくる人は、平和の種をまいて、義の実を結ばせるのです。」(LB)

なぜなら、問題の根底にあるのはねたみや利己的な思いだからです。

聖書ははっきりと言います。

ねたみや敵対心は、神からの知恵ではなく、この世のものであり、真理に逆らう悪霊からくるものです。」(16節LB)

この暗闇の力の現実のゆえに、平和はつくるものであることを自覚する必要があります。

神からの知恵は純粋であり、平和とおだやかなやさしさに満ち、思いやりと良い実に満ちています。」(17節LB)

私たちはこの世界を地獄にするためではなく、神の御国をもたらすために生きています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヤコブ 2章

「あわれみを示したことがない者に対しては、あわれみのないさばきが下されます。あわれみがさばきに対して勝ち誇るのです。」(2:13)

ヤコブははっきりと言います。

愛する皆さん。人をえこひいきし、相手が金持ちか貧しいかによって態度を変えていながら、どうして臆面もなく、「私は主イエス・キリストを信じています」などと言えるでしょう。」(1節LB)

残念ながら教会の歴史を見るとこのような差別があった現実があります。

ガンジーも教会に足を運んだ際に、この差別を体験しキリストに出会う機会を逸してしまいました。

私たちはこのような差別をしないように互いに気をつける必要があります。

聖書は言います。

思いやりのない人には、思いやりのないさばきが下ります。しかし、あわれみ深い人には、神のあわれみがあるのです。」(LB)

優しい憐れみはいつも厳しい裁きに勝利します。」(MSG)

ヤコブ 1章

「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」(1:19,20)

聞くことを優先し、自分の舌を制御し、怒りをあらわにしないようにと聖書は言います。

その理由は、「神の義は人間の怒りからは生まれない」(MSG)からです。

それでは、どうしたらいいのでしょうか。聖書は言います。

「ですから、自分の生活を総点検して、どんな悪をもすっかり取り除き、神のことばをすなおに受け入れなさい。神のことばには、私たちの心をとらえ、たましいを救う力があるからです。」(21節LB)

私たちは神の言葉、聖書を毎日読み、聖書の考え方に刷新される必要があります。

聖書は言います。

「もしも、「私はクリスチャンです」と言いながら、平気でとげのあることばを口にする人がいれば、その人は自分を偽っていることになります。」(26節LB)