ルカ 5章

「そこでイエスは彼らに答えられた。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです。」(5:31,32)

イエス様が招かれるのは正しい人ではなく、罪人だと言います。

自分は大丈夫という人ではなく、問題を抱えている人を招いて、その思いを変えるためにイエス様は来られて、ご自身の教会を建てられます。

ですから、教会は完全な人の集まりではありません。

それぞれ、様々な問題を抱えつつも、聖霊に内側から変えていただく場所です。

私たちはイエス様が招かれている一人一人に尊敬をもって接する必要があります。

神の目には一人一人は高価で尊いからです。

教会でもっとも大切なことは、まことの医者、イエス・キリストが必要という自覚です。

ルカ 4章

「主の恵みの年を告げるために。」(4:19)

イエス様が故郷のナザレの会堂で開かれた箇所はイザヤ61章でした。

「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ、主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、」(1,2節)

ローマ帝国の支配下にあった当時のイスラエルの人々にとってみれば、

「神の復讐の日を告げ」

という部分は大切な一節でした。しかし、イエス様はあえてその手前で

イエスは巻物を巻き、係りの者に渡して座られた。」(20節)

と聖書は言います。

イエス様のメッセージは復讐の日のメッセージではなく、恵みの年のメッセージでした。

そしてイエス様は宣言されました。

あなたがたが耳にしたとおり、今日、この聖書のことばが実現しました。」(21節)

今は恵みの時、今は救いの日です。

ルカ 3章

「そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」(3:16)

ヨハネの人生ははっきりしていました。

ヨハネはイエス様を指し示すことを人生のテーマにしていました。

「バプテスマ」という言葉は浸すという意味があります。

ヨハネは自分は水に浸すことしかできないが、イエス様は聖霊と火とで人々を浸すことができる力のある方だと言いました。

ヨハネの人生は教会のあるべき姿を示しています。

まず、一人でも多くの人が、イエス・キリストを信じて、水のバプテスマ(洗礼)を受けることができるように仕えていくことです。

そして、ヨハネがそうであったように、自分たちではなく、私たちよりも「力のある方」、イエス・キリストを指し示すことです。

ルカ 2章

「両親はそれに気づかずに、イエスが一行の中にいるものと思って、一日の道のりを進んだ。」(2:43,44)

ヨセフとマリアはイエス様が一緒にいるものと思って旅を続けてしまいました。

私たちも同じ間違いを犯しやすい傾向があります。

イエス様がいるものと思い込んで自分の働きを推し進め、イエス様の臨在を失っていることに気がつかないのです。

もし、そういう状態であるならば、私たちはイエス様の両親がそうしたように、祈りを持ってイエス様を探す必要があります。

イエス様を見つけるまで、あきらめずに、聖書を読み、探し続ける必要があります。

イエス様を見出すなら、イエス様は言われるでしょう。

「父(なる神)の働きに関わることになることを知らなかったのですか?」(49節NTE)

私たちも父なる神の働きに関わっていかなければなりません。

ルカ 1章

「マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」(1:46,47)

福音書に出てくる最初の祈りはマリアの祈りです。

それは、神への賛美で始まります。

祈りは神への応答から始まります。

神がまず語られ、私たちは答えます。

マリアの祈りの言葉を読めば、マリアがよく聖書を知っていたことが分かります。

マリアの祈りのモデルは、1サムエル記2章に出てくるハンナの祈りだからです。

私たちは聖書を読むことを通して、神がまず語られていることを聞くことができます。

そして、私たちは祈りに導かれます。

「祈りとは、聖霊によって私たちに臨在してくださっている神に、注意深く臨む私たちの方法です。」(ピーターソン)
今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日のSSCの主日礼拝は10:25よりYouTubeのライブ配信のみで行われます。

マルコ 16章

「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます。」(16:17,18)

イエス様は十字架にかかられ、私たちの罪をあがなうために死なれましたが、三日目に死の力を打ち破りよみがえられました。

そして、「天に上げられ、神の右の座に着かれた。」(19節)と言います。

これは、イエス様は永遠の主権を受けられ、天の御座に着座されたということです。

イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」(15節)と大宣教命令を命じられただけでなく、信じる者たちにしるしが伴う権威を授けられました。

イエス様が御座に座しておられますから、今、イエス様を信じる者は、イエス様の名によって悪霊を追い出すことができます。

イエス様が御座に座しておられますから、新しいことば、信仰の言葉を語ります。

マルコ 15章

「キリスト、イスラエルの王に、今、十字架から降りてもらおう。それを見たら信じよう。」また、一緒に十字架につけられていた者たちもイエスをののしった。」(15:32)

人々はイエス様が十字架につけられている理由を理解していませんでした。

あれだけ多くの奇蹟を起こされたイエス様がどうしてつけられたままか考えもしませんでした。

イエス様を十字架につけていたのが、釘ではなく、私たちに対する愛であったことを。

そして、自分たちの思い通りに動いてくれない神は信じられないと言いました。

私たちも、同じようなところがあるのではないでしょうか。

また、「こうしたら信じてやる」という言葉にも私たちは惑わされないように気をつける必要があります。

イエス様はそのような求めに対しては、反応をされず、聞き流さました。

私たちもそのような人のことばに操られるのではなく、神のみこころを行うことに心を留めていく必要があります。

マルコ 14章

「食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルド油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。」(14:3)

「非常に高価なナルド油」というのは、一デナリが当時の一日分の労賃に相当するので、一年分に相当する額(5節)でした。

それを惜しげもなくイエス様に注いだという意味は、それほどの価値をイエス様に見出したという意味です。

東方の博士たちも、同じように黄金、乳香(香料の一種)、没薬(天然ゴムの樹脂で、古代の貴重な防腐剤)を贈り物として生まれたばかりの赤子のイエス様に捧げました。

この時、

「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」(4節)

と憤慨し、捧げた女性を責めた弟子たちは、この後、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。

「貧しい人たちに施しができたのに」というのは口先だけでした。

イエス様を、何よりも価値のある方として、口先だけでなく、行動で表すことができますように。

マルコ 13章

「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。」(13:32,33)

聖書は明確にイエス・キリストの再臨を預言しています。

私たちは、いつ、イエス・キリストが再臨されても

「ハレルヤ!」

と言える生活を心がける必要があります。

問題は、

「偽キリストたち、偽預言者たちが現れて、できれば選ばれた者たちを惑わそうと、しるしや不思議を行います。」(22節)

と警告しているように、私たちを惑わす存在です。

「自分こそ再臨のキリストだ」

という人がいれば、それは、どんな人であっても「偽キリスト」です。

イエス様が再臨するときは、

「偉大な力と栄光とともに来るのを見ます。」(26節)

とあるように明確な再臨だからです。

マルコ 12章

「イエスは答えられた。「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」」(12:29-31)

律法学者の「すべての中で、どれが第一の戒めですか。」という問いに対して、イエス様は、

唯一の神を愛すること、

そして、

隣人を愛すること

を挙げました。

 

私たちの教会は

「これらよりも重要な命令は、ほかにありません」

とイエス様が言われたことを真剣に受け止め、

神を愛すること、

互いに愛し合うこと、

私たちの住むこの世界を愛すること

を最優先の目標として掲げ、活動しています。

「聞け、イスラエルよ。」

は申命記6:4からの引用です。

私たちはこの唯一の神が、父、子、聖霊の三位一体の神であると信じています。