マタイ21章

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしている。」(13節)

「強盗の巣」と訳された単語は、「暴徒(革命家・ゲリラ)の巣窟」とも訳せます。この表現を理解するのには旧約と新約の間に起こった出来事を知る必要があります。クリスマスの時期にハヌカの祭りをユダヤ人たちはお祝いしますが、それは、この中間時代に、ゲリラ戦でユダ・マカバイがシリア軍に打ち勝ち、神殿をきよめたという史実に基づきます。神殿はユダヤ民族主義の象徴となっていたのです。しかし、本来は

「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ。」(イザヤ56:7)

とあるように、神殿はユダヤ民族のためだけではありませんでした。イエス様が追い出した「売り買いしている者たち」は異邦人の庭と呼ばれる場所を占拠し、異邦人が祈ることを妨げていた人たちです。神はユダヤ民族だけでなく、全ての民族の神です。

マタイ20章

「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(28節)

神の御国の価値観とこの世の価値観は違います。イエス様は言われます。

「この世の普通の人たちの間では、王は暴君であり、役人は部下にいばり散らすものです。だがあなたがたの間では違います。リーダーになりたい者は、仕える者になりなさい。」(25、26節LB)

この世の人たちは自己顕示欲を満たすために人を蹴落としてでも、人の上に立とうとします。しかし、神の御国に生きる者はそうであってはいけません。私たちの模範はイエス様です。イエス様は王の王、主の主なるお方なのにも関わらず、私たちと同じ人間となり、人々に仕えられました。神の御国では、「皆に仕える者」が偉い人、偉大な人です。

マタイ19章

「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちがみもとに連れて来られた。すると弟子たちは、連れて来た人たちを叱った。しかし、イエスは言われた。「子どもたちを来させなさい。わたしのところに来るのを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちのものなのです。」そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた。」(13‐15節)

子どもたちをイエス様に手を置いて祈っていただける距離に連れて行く姿勢はとても大切です。幼い子どもたちが、たとえ理解することができなくても、教会の霊的雰囲気の中で育てられることは大変意味があることです。シュバイツァーは、親の敬虔な姿を見て、神を畏れることを学んだと言います。大人が神を第一にして生きることが、次世代に対する祝福になるということも心に留めておきたい内容です。子どもたちがイエス様のところに来るのを邪魔することがありませんように。

マタイ18章

「あなたがたは、この小さい者たちの一人を軽んじたりしないように気をつけなさい。あなたがたに言いますが、天にいる、彼らの御使いたちは、天におられるわたしの父の御顔をいつも見ているからです。」(10節)

イエス様が天使の存在について教えている箇所です。ここでのポイントは、子どもたちをどう扱うか注意するようにと言うことです。なぜなら、

「天国では、子どもたちを守る天使が、いつでもわたしの父のそば近くにいるのです」(LB)

もちろん天使たちは子どもたちだけでなく、キリストを信じるすべての人を守るために存在しています。聖書は言います。

「天使は、救われる人々を助けるために遣わされた、霊の使者なのです。」(ヘブル1:14LB)

天使を礼拝することは禁じられています。

神が天使たちを遣わして私たちを、特に社会的弱者、子どもたちを守っていることを意識する必要があります。

マタイ17章

「彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。」(8節)

使徒ペテロにとってこの時の出来事はあまりにも印象的だったらしく、後に手紙の中でもこう記しています。

「この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。」(2ペテロ1:17,18)

イエス・キリストは生ける神なので、今も私たちはペテロと同じような山頂の体験をすることがあります。山頂の体験は素晴らしいものですが、私たちが求めるのは体験ではなく、イエス・キリストです。

「イエス一人のほかには、だれも見えなかった。」

とあるように、私たちは現象や体験ではなく、イエス・キリストだけを見る必要があります。
今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マタイ16章

「シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません。」(16-18節)

ペテロは自分の口から出た信仰告白がどんなに意味のあることかこの時理解していなかったと思います。聖霊なる神様が彼にそう言わせたのだと思います。イエス様はこの信仰告白の上に「わたしは、わたしの教会を建てます。」とおっしゃられました。その信仰告白は

「イエスは、生ける神の御子キリスト」。

教会の土台は、生ける神イエス・キリストです。キリストは過去の偉人というだけでなく、未来に来られるお方というだけでなく、今、生きて働かれるお方です。

マタイ15章

「しかし、口から出るものは心から出て来ます。それが人を汚すのです。悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、ののしりは、心から出て来るからです。」(18,19節)

18節をメッセージ訳ではこう訳しています。

「しかし、口から出てくるものは心から始まります。」

つまり、私たちが一番気をつける必要があるのは心だとイエス様は言われました。箴言4:23にはこう書いてあります。

「何よりも、心を見守りなさい。心は生活全体に影響を与えます。」(LB)

どんなテレビを見るか?

どんなホームページを見るか?

どんな音楽を聞くか?

友人とどんな会話をするか?

私たちは心を見守る必要があります。

心が荒んでいくと、悪いことばが口から出て私たちを汚します。

ですから、日々、神のみことばに浸かる必要があります。

「主よ、あなたのみことばに私を浸してください。私の心をきよめてください。」

マタイ14章

「イエスは「来なさい」と言われた。そこでペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスの方に行った。ところが強風を見て怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。」(29,30節)

信仰と恐れは、互いに相容れません。信仰は恐れを消し、恐れは信仰を消します。もし、私たちがイエス様から目を離すことがなければ、私たちの信仰が水の上を歩くような世界に生きることを助けてくれます。しかし、現実の嵐のような状況は、私たちの目をイエス様から反らさせます。その時、私たちは失望の中に沈みます。しかし、ペテロのように「主よ。助けてください。」と、私たちを唯一助けることができるお方、イエス・キリストに叫ぶならば、イエス様がその御手を伸ばし、私たちを救い出してくださいます。イエス様は言われます。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」

今は恐れの時ではありません。信仰の時です。

マタイ13章

「いや。毒麦を抜き集めるうちに麦も一緒に抜き取るかもしれない。だから、収穫まで両方とも育つままにしておきなさい。」(29,30節)

麦か毒麦か、人が判断することはできません。私たちは、最後の審判までそのままにしておくように命じられています。すなわち、裁きは神に委ねるという姿勢が求められています。私たちは自分の善悪の基準で人を裁くことは許されていません。もし、自分の善悪で人を裁くならば、麦まで引き抜きかねません。イエス様は、「収穫の時まで放っておきなさい」と言われます。つまり、イエス様が責任をもって裁くから、放っておきなさいと言われるのです。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

マタイ12章

「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。」(20節)

能率主義、成果主義から考えると、理解に苦しむ箇所です。いたんだ葦も、くすぶる燈心も、捨てて換えたほうがいいものです。役にたたないどころか、迷惑なものです。しかし、イエス様はそんな「おちこぼれ」に希望をもたらされるお方だと言うのです。

「弱いものを踏み倒さず、どんな小さな望みの火も消さない。」(LB)

イエス様は決して見捨てないお方だと言うのです。イエス・キリストの十字架の御業が勝利をもたらしましたから、イエス・キリストを信じる者に、希望があります。

「彼の名こそ、全世界の希望となる。」(21節LB)

讃美歌「いつくしみ深き」の歌詞に「世の友、我らを捨て去る時も」とありますが、イエス様はあきらめません。希望はあります。