詩篇122:1-9

「エルサレムの平和のために祈れ。『あなたを愛する人々が安らかであるように。』」(122:6)

これは、ダビデによる都上りの詩篇です。エルサレムは、イスラエルの人々にとって国の中心であると同時に、精神的なよりどころでもありました。なぜならそこには神殿があり、神殿は神の臨在の象徴だったからです。彼らはそこで神を礼拝し、賛美をささげ、祈りをささげました。エルサレムの重要性は時代が移り変わった今でも変わりません。現在のエルサレムには、いたるところに戦争の傷跡、弾痕が残っています。神の臨在の象徴であった都が、傷だらけであるという現実は、イエス様がエルサレムを見て涙を流されたことを思う時に、私たちの心を絞めつけます。エルサレムの平和のために祈りましょう。また、神の臨在の象徴という意味で、自分が所属する地方教会のためにも祈るように命じられています。地方教会は世界の希望です。

詩篇121:1-8

「見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」(121:4)

私たちが必要なとき、神はいつもそこにおられます。いつでも私が呼ぶとき、神は答えられます。神はまどろむことも、眠ることもありません。人間は神にはなれません。すべての必要に人は答えることはできません。人はまどろむこともあれば、眠ることもあるからです。ですから、私たちは神に期待する必要があります。自分の期待に答えてくれる人を探すのではなく、神を求めることです。詩人は山に向かって目を上げました。目の前に立ちはだかる、問題の山の前に、「私の助けはどこからくるのだろうか」とつぶやかずにいられないような心境だったのでしょうか。そんな中で詩人はこの山さえも造られた創造主なる神に心を向けます。目の前に立ちはだかる問題も、神の許可なくして存在することはありえません。ならば、神には、その問題をも解決することができます。

箴言27:5-14

「朝早くから、大声で隣人を祝福すると、かえって呪いと見なされる。」(27:14)

箴言はTPO(Time(時), Place(場所), Occasion(場合))の大切さを教えています。時と場所、場合に応じた対応はこの世界で生きていく上で大切であることを聖書は教えています。祝福すること自体は素晴らしいことなのですが、時と場所、場合をわきまえないと呪いとみなされます。どんなに良いものであったとしても、時と場所、場合をわきまえなければならないと言うことです。LBではこう訳しています。

「朝まだ暗いうちに大声であいさつすると、いやがられます。」

今日の箇所のほとんどは友に関する内容です。

「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。」(10節)

イエス様は言われました。

「わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。」(ヨハネ15:14)
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

本日、第二礼拝の最初にカルテット・べセルの特別賛美があります。

詩篇120:1-7

「私が平和を──と語りかければ彼らは戦いを求めるのだ。」(詩篇120:7)

一二〇篇から一三四篇までは、「都上りの歌」と表題が付けられています。「巡礼の歌」(A Pilgrim Song)とも訳されますが、エルサレム巡礼の時に歌われたと考えられています。詩人はシャローム「平和」を望んでいるのに、今、自分の周りには「平和」を憎み、「戦いを好みます。彼らのどなり声に、私の声もかき消されてしまいます。」(LB)と訴えます。聖書が言う「平和」は、単に戦争のない静的状態ではありません。健全で、いのちに溢れた動的状態です。月本氏によると旧約聖書の二三七の用例から同義語、類義語を拾い上げると、ツェデク「義」と結びつき、神のエメト「真実」とへセド「慈愛」に基づきます。それで、「地上における平和は、究極的に、ヤハウェによってもたらされる、と信じられ、またそう願われた」と言います。「私はイエス様が必要」と認めることが、教会に足を運ぶ一歩となります。

詩篇119:169-176

「私は滅びる羊のようにさまよっています。どうかこのしもべを捜してください。私はあなたの仰せを忘れません。」(119:176)

「タウ」(ת)から始まるアルファベットの詩。

詩人は、自らの力で神の御言葉に生きていくことはできないと自覚していたのだと思います。自らをあてどもなくさまよう羊として描き、捜し求める「羊飼い」の存在なしに不可能であることを示唆します。しかし、詩人は「羊飼い」の声は認識できると言います。イエス様も、こう言いました。

「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。」(ヨハネ10:3,4)

「羊飼い」の声は聖書を読むことを通して聞こえて来ます。

詩篇119:161-168

「あなたのみおしえを愛する者には豊かな平安がありつまずきがありません。」(119:165)

「シン」(ש)から始まるアルファベットの詩。

主の御言葉を愛する者には豊かな「シャローム」(שָׁל֣וֹם)があります。まず、何よりも神との平和(シャローム)が約束されています。

「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)

そして、心の平安も約束されています。

「志の堅固な者を、あなたは全き平安(シャローム・シャローム)のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26:3)

神の御言葉を何よりも愛し、慕い求めることから「シャローム」は始まります。

「あなたが啓示されたことを愛する者たちのために、すべては合致します」(MSG)

箴言 26:23-27:4

「穴を掘る者は、自分がその穴に陥り、石を転がす者は、自分の上にそれを転がす。」(26:27)

いわゆる「まいたものを刈り取る」という原則は箴言に出て来る内容です。LBではこう訳しています。

「罠をしかければ自分がかかり、人に向かって石をころがすと、石が戻ってきて、その下敷きになります。」

何でも因果応報と考えて、何か悪いことをしたから悪いことが起こっていると考えることが間違いであることはヨブ記が教えている内容です。しかし、使徒パウロもこのように言っています。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:7-9)

詩篇119:153-160

「私の言い分を取り上げ私を贖ってください。あなたのみことばにしたがって私を生かしてください。」(119:154)

「レーシュ」(ר)から始まるアルファベットの詩。

「私の言い分を取り上げ」は、「私の争いを争って(רִיבָ֣ה)」が直訳です。「贖う」(גאל)は「買い戻す」(レビ二5:24)ことを意味する単語ですが、ここでは明らかに「虐げや苦難から個人を解放することを意味」(月本)します。神は私たちのために戦い、解放してくださる救い主です。ですから使徒パウロは言います。

「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

メッセージ訳ではこう訳しています。

「私の味方になって、ここから私を出してください。私の人生を戻してください。あなたが約束されたように。」

詩篇119:145-152

「私は心を尽くして呼び求めます。主よ私に答えてください。私はあなたのおきてを守ります。」(119:145)

「コフ」(ק)から始まるアルファベットの詩。

「私は呼び求めます」(קָרָ֣אתִי)と詩人は繰り返し(145,146節)訴えます。主の御名を呼び求め続けることは、神の御言葉を守ることと離して考えることはできません。ですから、メッセージ訳ではこのように訳しています。

「神様!答えてください!私は何でもあなたが仰ることを行います。」

神は私たちの祈りに答えてくださるお方です。そもそも、神ご自身がこう言われました。

「『わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。』」(エレミヤ33:3)

主を呼び求めましょう!