エゼキエル 22:23-23:49

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(22:30)

神は、ご自身とその国の間、破れ口に立って、とりなしの祈りをする人を捜していると言います。当時のイスラエルの国には、残念ながら見つかりませんでした。今も、この世の悪に対して、嘆くだけでなく、アブラハムのように「滅ぼさないでください」と、とりなして祈る人が求められています。歴史を通じて、人知れず破れ口に立ち、とりなしの祈りを捧げてきた人たちがいて、今があります。私たちはこの世の現実に対して無力に感じてしまいます。自分なんかに何ができるのだろうと思ってしまいます。しかし、神はこの国のために破れ口に立ち、祈る人を捜し求められています。
「主よ、日本の国をあわれんでください。イエス・キリストのゆえにリバイバルを与えてください。」

エゼキエル 20:45-22:22

「そこで、私は叫んだ。「ああ、神、主よ。彼らは私について、『彼はたとえ話をくり返している者ではないか。』と言っています。」」(20:49)

20章のはじめに、エゼキエルのもとに、イスラエルの長老たちが主の御心を知ろうとしてやってきたとあります。その彼らに対し、神はイスラエルの人々がどれほど神をないがしろにし、数え切れないほど裏切りを続けてきたかということを語り、その後の厳しい現実を宣告します。ところが神の御言葉を聞きに来たはずの長老たちは、それを現実とは思わず、エゼキエルがたとえ話を繰り返し話しているとしか受け止めませんでした。これは、御言葉を聴く私たちの姿勢に対する警告と受け取ることができます。真剣に語られている神の御言葉に対して、真剣に聞く姿勢が求められています。そうでなければ長老たちのように、ただの「お話」で終わってしまいます。

滞在は七時間

オープンチャーチでのご協力、本当にありがとうございました。良い天候に恵まれ、沢山の方々が来てくださり本当に楽しく素晴らしい時間となったことを感謝します!
オープンチャーチの二日前、わたしはリラのコンサートのため名古屋一麦教会に行ってきました。礼拝やオープンチャーチのことを考えると、日帰りを選択せざるを得なかったのですが、短いながらも中身の濃い名古屋での七時間を過ごすことができたと思います。皆さんお祈りを心から感謝します。今年もいよいよ終わりに近づいてきましたが、皆さんのこの一年はいかがだったでしょうか?今月末には感謝礼拝も予定していますので、そろそろ振り返りの時間を持つのも良いかもしれません。私たちの気付いたこと、だけでなく気付かないときにも神様は支え、助け、恵みの内に私たちを歩ませてくださったのだと思います。せめて気付いたことだけでも覚えて感謝をささげる時を持てたら、、、穏やかな青空を見上げながら、そんなことを考えている、晩秋の午後です。
(小山晶子牧師人)

エゼキエル書 19:1-20:44

「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。」(19:14)

メッセージ訳では、最後の部分をこう訳しています。

「これは悲しい歌、ブルースを歌うための歌詞」

それほど歌詞自体には希望を見出せません。ただ、私たちが「何に信頼しているか」という大切な問いかけがなされています。19章では、強いライオンと強い枝をもつぶどう園が登場します。これはダビデ王朝を象徴しています。しかし、ライオン(王)も連行され、ぶどう園(イスラエル)も引き抜かれてしまいます。私たちは何に信頼しているでしょうか。強力な力をもった指導者でしょうか?イエス・キリスト以外の誰かに、何かに信頼しているならば、それは砂地であり、ブルースの歌になります。
今日は、主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

エゼキエル書 17:1-18:32

「あなたがたは、イスラエルの地について、『父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く。』という、このことわざをくり返し言っているが、いったいどうしたことか。」(18:2)

不思議なことわざですが、ポイントは自分が問題の中にいる原因は父親(先祖)にあるという意味です。自分自身の問題を棚上げにして、先祖のせいにすることを、神は否定されました。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―あなたがたはこのことわざを、イスラエルで、もう決して用いないようになる。見よ、すべてのいのちはわたしのもの。父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ。」(3,4節)

神のポイントは、誰かのせいにしてはいけないということです。

「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」(21節)

自分の選択が問われるのです。

エゼキエル書 16:1-63

「その美しさのために、あなたの名は諸国の民の間に広まった。それは、わたしがあなたにまとわせたわたしの飾り物が完全であったからだ。―神である主の御告げ。―ところが、あなたは、自分の美しさに拠り頼み、」(16:14,15)

16章の前半は、イスラエルの子たちが神に見出されるまでどんなに望みのない状態だったかが記されています。神はイスラエルの人々を洗いきよめ、祝福し、美しくしました。しかし、残念ながらイスラエルの人々は、その美しさに拠り頼んで、神を忘れ、霊的な姦淫の罪に陥ってしまいました。これは今も起こりうることです。神が誰かを祝福し、その人が自分だけでは到達できないような地位に立てることがあります。しかし、残念ながら、あたかも自分の力で達成したかのように、神の賜物を神の国のために用いることなく、自分のため、自分の欲望に生きてしまうことがあります。神に栄光を帰すために賜物が与えられたことを忘れることがありませんように。

エゼキエル書 13:1-15:8

「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブがいても、―わたしは生きている。神である主の御告げ。―彼らは決して息子も娘も救い出すことができない。彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」(14:20)

聖書は言います。

「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。」(創世記6:9)

ダニエルに関してはこう呼ばれたと記されています。

「神に愛されている人ダニエルよ。」(ダニエル10:11)

ヨブに関してはこう記されています。

「この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。」(ヨブ1:1)

神は旧約聖書に出てくる代表的な人物であっても、自分の家族さえ救うことはできないと言います。ですから、神の子、イエス・キリストは、私たちのためにこの地に来て、私たちの身代わりとなって十字架で死に、葬られ、よみがえる必要がありました。イエス・キリストだけが救い出すことができるからです。

エゼキエル書 10:1-12:28

「それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』」(11:16)

前章でエルサレムの神殿から主の栄光が離れ去ったことが記されています。神殿は天と地が重なる場所、神と会う場所です。しかし、エルサレムの神殿はその機能を失っていました。皮肉にも神はエルサレムの神殿ではなく、散らされた国々で、神を求める人たちにご自身を現され、神殿の真意を示されました。今、神殿がエルサレムにないことには意味があります。エルサレム神殿の再建は福音ではありません。なぜならイエス・キリストが真の聖所となられたからです。イエス・キリストの中で天と地は重なり、イエス・キリストの中で聖霊によって人は神と出会います。

「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」

エゼキエル書 7:1-9:11

「主は彼にこう仰せられた。『町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。』」(9:4)

神は裁きを下される前に、エルサレムで行われるすべての罪悪のために泣き悲しむ者の額にしるしをつけられたと言います。これはまた、当時流行していた価値観ではなく、変わらない聖書の価値観に生きる人を指しているとも言えます。時代や文化の変化と共に、移ろいやすい価値観、道徳があります。「みんなやっているから」と言って正当化されることはありません。聖書の価値観、道徳は、時代を超えて、何千年間も変わらずに、文化を超えて揺るがずに存在しています。そして、その時代の流行の価値観に流されない人々に、確実に祝福を最終的にもたらしています。しるしを付けられた人たちは守られました。どんな時も、聖書を自分の信仰と生活の唯一の規範として選択できますように。

エゼキエル書 4:1-6:14

「それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。」(4:7)

LBでは最初の部分をこのように訳しています。

「エルサレムの包囲の様子を実演して見せるのだ。」

エゼキエルの預言の特徴は視覚に訴えるものでした。映像を言語化することが難しいように、エゼキエル書は難解です。プロテスタント教会は、神のメッセージを視覚化することに否定的でした。そのため、カトッリク教会で発展した美術なども、否定的に受け止めてきました。十字架という映像さえ否定的な教会もあります。しかし、今日の箇所を素直に受け止めるならば、神のメッセージを伝えるために、視覚に訴えるもの、絵画や映像、演劇などのメディヤも積極的に活用していくことは、実は聖書的だと言えるのだと思います。福音を提示していくために、私たちはもっと創造的(クリエイティブ)であるべきです。