イザヤ書 30:19-32:20

「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる。」(32:15)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「しかしついには、天から御霊が注がれ、再び、見渡す限りの豊かな収穫が見られるようになります。」

聖霊なる神が臨まれる時、大きな変化が起こるという世界があります。日頃のコツコツとした積み重ねが大切なことは当然ですが、聖霊が臨まれるという神の領域があることを認識することも大切なことです。私たちは自分の限られた能力ではなく、無限の神に希望を抱いて生きることが大切です。メッセージ訳はこう訳しています。

「そうです。泣くのも悲しむのも上から私たちに聖霊が注がれるまでです。」

私たちの涙が喜びに、悲しみが踊りに変えられる神の時があります。その日を待ち望みつつ、今を生きることができますように。

イザヤ書 29:1-30:18

「ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。」(29:16)

今日の箇所は、私たちが創造主なる神に対してどのように考えるべきかを明確にしてくれる箇所だと思います。神は私たちを造られた神であり、私たちは神に造られた被造物です。神は神であり、人は人です。人が神になることはありません。しかし、人は倒錯を起こして、創造主なる神に対して「神は何も分っていない」などと言っていることがあるのではないでしょうか。創造主なる神はすべてをご存じであり、しかも、私たちを愛しておられます。私たちは神の指紋がついた、神の作品であることを忘れてはいけません。私たちは有限な人間であり、無限の神と対等の存在ではありません。神を神として認めることができますように。

イザヤ書 27:1-28:29

「時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面に実を満たす。」(27:6)

100年ほど前、この預言は夢のような話でした。イスラエルの国はまさに荒野であり、植物とは無縁な土地だったのです。ですから、ありえないという比喩としか理解することはできませんでした。しかし、1900年代のはじめ、ユダヤ人たちはアラブ人たちから荒れた土地を買い、その土地に植物が育つように改良しました。今、イスラエルに行くならば農地を見ることができます。そして、世界でも五本の指に入る果物輸出国となっています。(日本でも、ヤッホ・ルビーと呼ばれるイスラエル産の果物が輸入されています。)神は2700年ほど前に、すでにこのことが起こることを知っておられました。

「やがてイスラエルが根を張り、つぼみをつけ、花を咲かせ、世界をその実で満たす時が来る。」(LB)

神にできないことはありません。神の約束は必ず成し遂げられます。

イザヤ書 24:1-26:21

「月ははずかしめを受け、日も恥を見る。万軍の主がシオンの山、エルサレムで王となり、栄光がその長老たちの前に輝くからである。」(24:23)

イザヤはやがてヤハウェなる神ご自身が治めるために来られると預言しました。

「シオンの山、エルサレムで王となり」

というのは、ダビデの王国の完成を意味します。神ご自身が王となり、その民を牧される。イエス・キリストはエルサレムで十字架にかかられました。その十字架の上には、「ユダヤ人の王」と刻まれました。誰が想像したでしょうか。神はそのひとり子を与えることによって王となられました。子なる神イエス・キリストは、すべての人の罪のために死ぬことによって王となられました。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ついに天の軍勢の主はシオンの御座にのぼり、イスラエルの長老たちの見ている前で、エルサレムを中心に世を治めます。その栄光は、太陽の輝きも月のうるわしさも、色あせてしまうほどです。」

イザヤ書 20:1-23:18

「ドマに対する宣告。セイルから、私に叫ぶ者がある。「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りよ。今は夜の何時か。」夜回りは言った。「朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい。」」(21:11,12)

イザヤのところにエドムの人々が、アッシリヤの脅威はいつまでかと尋ねにやってきました。イザヤはエドムの人々に、本当にそのことが知りたいのなら、心からもう一度尋ねに来るようにと言いました。神は今も同じようにされることがあります。鎮痛剤程度に神を求めてきても、神はその人が心から求めに来るまで答えを待たれることがあります。聖書は言います。

「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)

スポルジョンは言います。

「それが好きであれ、嫌いであれ、求めることは神の国のルールです。」

熱心に主を求めましょう。

ラムネ菓子

今月後半に小山牧師がバングラデシュのHOPを訪問するにあたり、先日のHOP理事会でお土産に「オリオンラムネ」を約600個持っていくことが決まりました。ラムネ菓子が日本発祥であるということを皆さんご存知でしたか?このラムネ菓子、もともとはラムネという飲み物から語源は来ているそうですが、実はこれ、「レモネード」がなまって「ラムネ」となったそうです。ラムネ菓子は落雁にヒントを得たという説などもあり探っていくと面白そうです。ちなみに成分はでんぷん、ぶどう糖、クエン酸だそうで疲労回復に効果的なんだそうですよ。残暑疲れにラムネを一粒みなさんも食べてみてはいかがでしょうか。身体だけでなく、心が疲れてしまってどうにもこうにも立ち上がれないと感じている人もいらっしゃるでしょう。一粒のラムネならぬ一言の御言葉が、五臓六腑に染み渡ることを体験するチャンスかもしれません。主は良いお方です。暫し目を閉じ、神様がして下さったことを思い起こしながら静まるときを持っていければと思います。 (小山晶子牧師人)

イザヤ書 17:1-19:25

「その日、人は自分を造られた方に目を向け、その目はイスラエルの聖なる方を見、自分の手で造った祭壇に目を向けず、自分の指で造ったもの、アシェラ像や香の台を見もしない。」(17:7,8)

本当に大変な時、私たちはどこに向かっているでしょうか。自分の手で造ったものは、結局は、自分の能力を超えることはありません。自らを縛ることはあっても、解放することはありません。私たちは、自分が造ったものではなくて、自分を造った方に目を向けるべきです。無から有を生じさせることができる、創造主を見上げるべきです。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27口語訳)

私たちの手で造ってしまうものは、物だけでなく、哲学や思想もあると思います。自分流の考えも、自分を超えることはありません。私たちは、自分を造った方、そのみことばである聖書に目を向けるべきです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

イザヤ書 14:1-16:14

「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(14:13,14)

この箇所は一般的にサタン(ルシファー・12節)について言及している箇所だと考えられています。エバを「あなたがたが神のようになり」(創世記3:5)と誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するようになったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。神のようになろうとする欲求は昔も今も変わりません。人間は今も神に対抗できるかのようにバベルの塔を築き上げようとし、その結果、混乱(バベルの意)がますます世界に広がっています。神は神であり、人は神になることはできません。神は絶対者であり、対立できる存在はいません。悪魔の嘘にだまされないように、神を神として認めていくことができますように。

イザヤ書 10:20-13:22

「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(12:3)

この箇所は、私たちにとってとても馴染みがあるところです。なぜらな、この節のヘブライ語が「マイム・マイム」という、かつて日本の学校で頻繁に踊られていたフォーク・ダンスの歌詞だからです。マイムとは『水』のこと、そして新約の時代には七日間にわたって行われた仮庵の祭りの最終日に、祭司がギホンの泉から水を汲み、この節を唱えて神殿前にある祭壇に注ぎました。それは降雨を切望するユダヤ人にとって切実な雨乞いの祈りの儀式でした。ヨハネの福音書には、その祭りの最終日にイエス様が大声で人々に語った言葉が記されています。

『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38,39)

イエス様こそ、わたしたちの救いの泉、いのちの源泉です。

イザヤ書 8:11-10:19

「それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。』」(10:13)
イザヤ書10章は、当時最強のアッシリア帝国に対する預言の言葉が記されています。ですから、13節の『彼』とはアッシリアを表わしています。イザヤ書は、ちょうど北王国がアッシリアに滅ぼされた時代に書かれました。イザヤが活動していた南王国もまた、このころアッシリアの脅威にさらされていました。アッシリアの傲慢な姿をこの箇所からでも容易に想像することができます。しかし、この僅か100年後にアッシリア帝国は完全に滅ぼされてしまうのです。17節に
「一夜のうちに焼き払うでしょう」(LB)
とありますが、首都ニネベが破壊され、炎に包まれたことが考古学の発見からも確認されています。
どんな強国も栄枯盛衰していくように人間は全能ではありません。神のみが全能者です。