ヨナ書 1:1-4:11

「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」(4:2)

ヨナは神が情け深くあわれみ深い神であることに対して怒りました。神がどうしてそんな人を預言者として用いられたのだろうと思ってしまいますが、私たちも似たような所があるのではないでしょうか。自分に対して、神があわれみ深くても当前のように受け入れます。しかし、他人が、特に、北イスラエルを滅ぼすアッシリヤの首都ニネベのように自分がふさわしくないと思う人の上に神のあわれみが注がれると、素直に受け入れられなかったりするのです。しかし、神のあわれみ深さは測り知ることはできません。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2列王記 24:8-25:30

「彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」(25:30)

列王記の最後の章は、バビロン帝国によるエルサレムの包囲、陥落という悲劇が記されているのにも関わらず、最後の節は、何か希望を与えてくれます。ネブカデネザル王の死後、エビル・メロダク王は、ユダの王エホヤキンに恩赦を与え、牢獄から釈放しました。それだけでなく、彼に親切にし、厚遇しました。

「エホヤキンは生きている間、王から日々の生活費を支給されました。」(LB)

ちいろば先生こと榎本保郎師はこの箇所に関してこんなコメントをしています。

「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。そのときヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受けとめながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望をもって生きることができるのである。」

2列王記 23:1-24:7

「王は主の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、主の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。」(23:2)

ヨシヤ王は人々を集め、神のみことばを読み聞かせました。協会共同訳では、

「子どもから大人まですべての民と一緒に」

と訳しています。このみことばの読み聞かせが、この章に出てきているヨシヤ王の宗教改革をもたらせました。神のみことばが人々をまことの礼拝へと導いたのです。神のみことばにはそのような力があります。神のみことばは私たちをまことの礼拝へと導いてくれます。聖書は言います。

「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

私たちは神のみことばである聖書のメッセージをまず聞く必要があります。信仰は、聞くことから始まります。

2列王記 21:1-22:20

「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」(22:11)

聖書のみことばは、私たちに行動を求めます。聖書は言います。

「みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

ヨシヤ王は神のみことばに対して真剣だったので、みことばを聞いた時、心を痛め、主の前にへりくだり、自分の衣を裂き、主の前で泣きました。そして、祭司たちに命じました。

「行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、主のみこころを求めなさい。」(13節)

神はそんなヨシア王の姿をご覧になっていました。私たちも神のみことばの前に襟を正し、みことばに応答していくことができますように。神の前にひりくだり、主のみこころに心を留めることができますように。

2列王記 19:14-20:21

「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。ヒゼキヤは主の前で祈って言った。『ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました。」(19:14,15)

エルサレムはアッシリヤの軍勢に囲まれ、ヒゼキヤ王は行き詰まりました。彼らはヒゼキヤ王に言いました。

「おまえの信頼するおまえの神にごまかされるな。おまえは、エルサレムはアッシリヤの王の手に渡されないと言っている。おまえは、アッシリヤの王たちがすべての国々にしたこと、それらを絶滅させたことを聞いている。それでも、おまえは救い出されるというのか。」

ヒゼキヤ王は問題を神の前に持っていきました。神は預言者イザヤを通して彼に語り、事実、彼らを守られました。テイラープリズムもそれを物語ります。聖書の神は今生きて働かれ、祈りに答えられるお方です。

2列王記 18:1-19:13

「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(18:4)

民数記21章に、荒野を旅していたイスラエルの民が神に文句を言う出来事が記されています。神は奇蹟的なマナで彼らを養っていたのに、彼らは言いました。

「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5節)

それで神は燃える蛇を送り、多くのイスラエルの人々が蛇に噛まれて死にました。モーセは、神が命じられたように一つの青銅の蛇を作りました。人々はその青銅の蛇を見上げると、生きました。しかし、イスラエルの人々は、今度はその青銅の蛇を礼拝するようになっていたというのです。神の約束に対する信仰が彼らをいやしたのであって、青銅の蛇の彫像物が彼らをいやしたわけではありません。

神ではなく、道具を崇めていないでしょうか?

2列王記 16:1-17:41

「アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。」(16:10)

アハズ王は、アッシリヤ帝国の力の背後に、より力がある神々の存在があると考えました。それで、アッシリヤ帝国と同じ神々を礼拝すればイスラエルの国も繁栄すると短絡的に考えます。悲しいことに、祭司たちもそれに従い、生ける神の神殿はアッシリヤ帝国の神々のために変えられてしまいます。結局のところ、彼らは神を神とせず、自分の益のために利用できる神々かどうかとしか見ていなかったのです。それで、自分の思い通りに向かわないから、より強そうな神々へと簡単に乗り換えてしまったのです。そもそも、十字架にかかられた生ける神は、私たちの思い通りにはなりません。神は神であり、人は人。何でもできる力ある神ですがジーニーではありません。

みえない

梅雨らしい天気が続いています。
もんわりする暑さと乾かない洗濯物にそろそろ嫌気がさしてきた方もいらっしゃるでしょう。そんな梅雨のさなかの先週木曜日、悪天候のため婦人会を急遽お休みにすることにしました。朝から降り続いている雨と台風のような風に驚きながら車を運転していたところ、どんなにワイパーを速く動かしても前がまったく見えないほどの土砂降りの雨に遭遇しました。とても怖かったです。使い慣れてる道なのに、周りが見えなくなって自分がどこにいるかが一瞬わからなくなってしまいました。その時、隣に乗っていた次男が「信号が赤だよ。とまって。」といった言葉にはっと我に返りました。いま、このことを書きながらその場面を思い起こしているのですが、たとえ自分は見えていなくても、聖霊なる神様がともにおられるならその声に耳を傾ければいいのだということを改めて思い起こしています。人生は、前の見えない道をドライブしているような場面が多いですが、主が隣にいてくださるから、私たちは平安なのですね。   (小山晶子牧師婦人)

2列王記 14:23-15:38

「彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。」(15:3)

15章はユダとイスラエルの王たちの事跡が次々とわずかな言葉によってまとめられます。一人一人の人生には様々な出来事があったはずですが、数行で片付けられています。ちいろば先生こと榎本師はこう言います。

「聖書はそうした王たちの事跡を記しながら、最後に必ず彼が神に対してどのように生きたかを記している。このことは私たちの人生にとって何が最も重要なことであるかを示しているのではなかろうか。」

人生は結局のところ、私たちが神に対してどのように生きたかが問われます。さらに榎本師はこう言います。

「しかし、そうした生き方は見よう見まねによることが多い。」

アザルヤ(ウジヤ)は父が行なったとおりに主の目にかなうことを行ったと言います。私たちの生き様が、次世代に影響を与えます。今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2列王記 12:1-14:22

「ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言った。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言った。すると彼は三回打ったが、それでやめた。」(13:18)

「地面を打ちなさい」と言われて、何度も地面を打つ人は稀だと思います。三回で止めたイスラエルの王に対してエリシャは怒って言いました。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」この時代、戦いが一度や二度で決着がつくことは稀でした。決定的に勝利するためには、五回、六回、勝ち続ける必要がありました。イスラエルの王は、そのことを知りながらも、三回で止めてしまったのです。「この位でいい」と。そのような消極的な姿勢をエリシャは怒ったのです。私たちはどうでしょうか?主は勝利するまであきらめてはいけないと言います。
「地面を打ちなさい!」