2サムエル 20:1-21:22

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。」(21:1)

ダビデはイスラエルの国の危機的な状況を見て、

「時間をかけて祈った」(LB)

と言います。これがキリスト者の姿勢です。すべての問題に、必ずしも原因があるとは限りません。しかし、この日本の国が、社会的、経済的、道徳的、霊的な問題に直面しているのに、私たちは見て見ぬふりをするべきではありません。神はソロモン王に言いました。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(Ⅱ歴代誌7:14)

神の御顔を求め、この日本の国のために主のみこころを求めて、呼び求めましょう。犯人探しではなく、主の前にへりくだり祈る人が求められています。

2サムエル 18:19-19:43

「アヒマアツは低地への道を走って行き、クシュ人を追い越した。」(18:23)

ダビデ王のもとに、ヨアブは最初、クシュ人を伝令で遣わしました。しかし、勝利の報告をどうしても伝えたかったアヒマアツは、ヨアブに頼み込んで、自分もダビデのもとに行くことを許可してもらいました。後から出発したアヒマアツは、低地への道を走って行ったので、クシュ人を追い越してしまったと聖書は言います。クシュ人はエチオピア人のことです。スポルジョン師はこう言います。

「私の霊の旅はどうであろうか。労苦を重ねて自らの行いという丘に登り、屈辱と自己の決断の谷に下っていないだろうか。それとも私は、『信じて、生きよ』との平坦な道を走っているだろうか。・・・この箇所を読んで気づくことは、もし人がささいな問題で争っているならば、他の者に追い越されるということである。」

2サムエル 16:15-18:18

「アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。」(17:14)

どんなに優れた助言があったとしても、それが実行されるとは限りません。神が介入される時、人は何もできません。最終的には、神のみこころが行われます。ですから、どんなにこの世界の情勢が不透明であっても、過度に恐れることなく、神に信頼する必要があります。最終的な決定権は神にあります。

2サムエル 15:13-16:14

「たぶん、主は私の心をご覧になり、主は、きょうの彼ののろいに代えて、私にしあわせを報いてくださるだろう。」(16:12)

息子のアブシャロムの反乱に、王国を捨てて泣きながら逃げるダビデに、前の王のサウル家の一族の一人、シムイはののしります。ちいろば先生こと榎本師はこんなことを言っています。

「誤解や中傷は私たちの人生にはつきものである。それは決して特別なものではない。ところが私たちはこうした被害を受けるとき、なんとか早くそれが解消するようにとやっきになる。しかし、自分をのろう者を抹殺したからといって、それで問題が解決するわけのものではない。・・・神への信頼、神による勝利を確信する者だけが、耐えることができ、耐えることができる者だけが勝利にあずかることができるのである。」

「悪いことをされても仕返ししてはいけません。主があなたを救うのを待ち望みなさい。」(箴言20:22LB)

鏡よ鏡よ鏡さん

アマゾンのタイムセールのおかげで念願のLEDライト付卓上鏡を手に入れました。コンサートの控室などに時々いわゆる「女優鏡」があり、まぶしいほどのライトは、目が悪い私にとっては大変ありがたい存在でしたので、わくわくしながらさっそく梱包をほどいて電池をセットし、ライトをつけてみました。隅々まで照らされた自分の顔を見てびっくり。あそこにもここにもしみが、、、しわが、、、歳を重ねていることはわかっていましたが、思った以上の現実にのけぞりそうになりました!見なければよかった、、、そんな思いが心をかすめていきましたが、とにかく現実を直視しなければとローションの量を増やして塗り込みながら抵抗を試みる日々です。でもこの身体は一時的なもの、やがて天の御国で栄光の身体になるときにはシミもしわもない、と聖書に書いてあります。なんとすばらしい約束でしょう。みんなシミもしわもない姿ってどんなだろう?そんなことを考えてしまいました。やがて来るその日を、楽しみにしながら歩むきょうこの頃です。
(小山晶子牧師婦人)

2サムエル 14:1-15:12

「王は言った。「あれは自分の家に引きこもっていなければならない。私の顔を見ることはならぬ。」それでアブシャロムは家に引きこもり、王の顔を見なかった。」(14:24)

ダビデ王は、アムノン王子を殺したアブシャロム王子を赦すことができませんでした。エルサレムに戻ってくることを許可したものの、顔は見たくないと、親子の関係を修復することを願いませんでした。その結果、この後、アブシャロム王子の謀反が起こります。ちいろば先生こと榎本師はこう言います。

「神による和解でなければそこからは真実の交わりは回復されるものではない。」

残念ながら、ダビデ王もアブシャロム王子も神の御前に悔い改めたとはありません。本当の和解はただ、イエス・キリストから来ます。聖霊の力を求める必要があります。
今日は主の日。ペンテコステの日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2サムエル記 13:1-39

「アムノンには、ダビデの兄弟シムアの子でヨナダブという名の友人がいた。ヨナダブは非常に悪賢い男であった。」(13:3)

アムノン王子の根本的な問題は、悪賢い友人の助言を求めたことでした。詩篇1:1には、

「幸いなことよ。悪しき人々の助言を拒む人…」(英訳)

とあります。悪賢い助言は拒む必要があります。誰の助言に耳を傾けるかが人生を左右します。聖書は言います。

「わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。」(詩篇32:8)

私たちは、誰かではなく、神のみことば、聖書のみことばに耳を傾けていく必要があります。残念ながらアムノン王子が自分の悩みを神に祈り求め、神のことばを聞こうとしたという記事はありません。友の言葉が神の言葉より影響力があるならば気をつける必要があります。なぜなら、友も人であり、神ではないからです。

2サムエル記 11:1-12:31

「年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。」(11:1)

戦いがある時、ダビデはいつも自分が先頭に立って出て行きました。しかし今、彼は大成功を収め、自分が出て行く必要もないと、エルサレムに残りました。確かに、ダビデが行かなくても勝利を取ることは可能かもしれません、しかし神はダビデに先頭に立って行くように王として召したのです。ところがダビデは自分がいなくても大丈夫と、神の召しを軽視したため、この後大きな罪を犯してしまいます。自分がいなくても何とかなると、神の働きに参加することを軽視してしまう時がもっとも危険な時です。神はご自分の益のために召しているのではなく、私たちの益のために、神の働きに参加するように招いているからです。

2サムエル記 9:1-10:19

「ダビデは言った。『恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。』」(9:7)

ダビデがメフィボシェテを探して呼び出した理由は、彼をいつも王の食卓に招くためでした。神は私たちのためにいつも食卓を整えていてくださるお方です。詩篇23:5,6には、こう書いてあります。

「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。」

神は祝福したいのです。どんな問題の中にあっても、それを乗り越える力を与えるために、みことばの食事を整えています。神は日々聖霊の油を注いで、力を与えようとしています。私たちは王の食卓に招かれています。

2サムエル記 7:1-8:18

「ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀や金とともに主に聖別してささげた。」(8:11)

ダビデは神のために神殿を建てることは許可されませんでしたが、神殿を建てるための準備をし続けました。ダビデは、「自分が建てることができないなら、自分は何もしない」とは言いませんでした。ダビデは自分の思い通りに神が用いてくれないからと怒りませんでした。彼は無責任に誰かがしてくれるとも言いません。自分の許された範囲で、一生懸命主に仕えました。事実、ダビデが準備したから、その子、ソロモンは神殿を建てることができました。そのようにすべての偉大な働きには表と裏があります。偉大な宣教の働きの陰には、祈りをもって宣教師を支えて宣教の働きに携わった無名の人たちがいます。宣教師も宣教を支える人も、主の目には同じように重要な宣教の働きに携わる人々です。