おはよう、ジェニー

雪、思ったより降りませんでしたね。少し残念に思っているのは恐らく私だけではないと思います。数日前の季節外れの暖かい日に亀のジェニーが冬眠から完全に目覚めてしまいました。早春の日差しにうっとりと甲羅干ししている姿に癒されています。梅の木にも沢山のつぼみがついていて開花が楽しみです。春を迎えるにあたり、皆さんは何か心待ちにしていることはありますか。わたしはオジギソウを育てようとずいぶん前から考えていましたが、ようやく種を手に入れたので種を蒔くのを楽しみにしています!当たり前のことですが、種蒔きって期間がおおよそ決まってますよね。例えばオジギソウだと3月から6月。それ以外の時期に蒔いてどんなに栄養を与えても育ちません(恐らく)。ときが良くても悪くても御言葉を宣べ伝えるようにと聖書は語っていますが、「種まくシーズン」と「時が良くても悪くても」という二つの言葉に今日は暫し黙想するときを持ちました。教会も、生き生きと新しい歩みが芽吹く季節となりますようにと祈りつつ。      (小山晶子牧師婦人)

出エジプト 6:13-8:32

「呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。」(8:18)

神がエジプトに下された十の災害は、エジプトの神々に対する裁きでもありました。最初の災害は、ナイル川を血に変えるというものでした。エジプトの人々にとってナイル川は、彼らに祝福をもたらす彼らが拝んでいた神でもありました。そのナイル川が血となるということは、イスラエルの神が、エジプトの神々を裁かれたという意味でもありました。血と蛙の災いまでは、

「エジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。」(7:22)

とあります。しかし、三つ目のぶよの災いの時、呪法師たちも、

「これは神の指です。」(8:19)

と降参します。しかしパロ(ファラオ)の心はかたくなであったため、さらなる災いが待っていました。聖書の神、YHWHは王の王、主の主なる神です。

今日は主の日。神々を無とする偉大なる神に、共に礼拝を捧げましょう!

出エジプト 4:1-6:12

「主は彼に仰せられた。『あなたの手にあるそれは何か。』彼は答えた。『杖です。』」(4:2)

神は私たちの手にすでにもっているものを用いて御業をなさるお方です。モーセの手には杖がありました。神はその杖を用いられました。ペテロは漁師でした。彼の手には網がありました。神は彼の網を用いて人間をとる漁師とされました。パウロは学者でした。彼の手にはペンがありました。神は彼のペンを用いてたくさんの手紙を書き残させました。神は私たちに

「あなたの手にあるそれは何か」

と尋ねています。私たちの手には何があるでしょうか。たとえそれが自分で努力して体得した技術だったとしても、それは神の賜物です。なぜなら、努力できる環境も神が与えてくださったものだからです。ですから、神は私たちに問われます。

「あなたの手にあるそれは何か?」

「主よ、示してください。私の手にあるものを。そして、私を用いてください。」

出エジプト 1:1-3:22

「しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。」(1:17)

聖書は、

「主を恐れることは知識の初めである。」(箴言1:7)

と言います。イエス様もこう言われました。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)

助産婦たちは、からだを殺すことができるエジプトの王ではなく、たましいもからだも滅ぼすことのできる神を恐れました。その結果、

「助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。」(21節)

とあります。神への健康な恐れは、人に対する不健康な恐れを克服させてくださいます。神を正しく恐れることから健全な社会が生み出されていくと言っても過言ではないと思います。

ヨブ記 40:3-42:17

「私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。」(42:5,6)

ヨブは、単なる耳学問ではなく、神を現実として体験しました。ヨブの苦難に対する神からの答えはありませんでしたが、ヨブは満足しました。知性偏重主義の社会に聖書は挑戦します。人は知性以上の存在であり、神を体験することが大切であると。ここで「悔い改め」と訳された言語は、一般的に「悔い改め」と訳す言葉とは違う言葉が使われています。罪を悔い改めるという意味ではないので、岩波訳では、「考え直します」と訳しています。ヨブは罪人だったという意味ではありません。「義人が苦しむことがある」ということがヨブ記のテーマだからです。しかし、その苦難は祝福のはじまりでもありました。聖書は言います。

「ヨブの晩年は、初めよりずっと祝福されました。」(12節LB)

ヨブ記 38:1-40:2

「主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。」(38:1)

38章から、神がヨブに直接語られています。若いエリフの話がまだ終っていない印象も受けますが、神が突然、登場します。榎本保郎師はこう言います。

「聖書には神がつむじ風の中でしばしばご自身を現されたことが記されている。考えてみると、つむじ風、すなわち暴風に出会うとき人間は自分の弱さをいやというほど知らされる。・・・人間は自然の猛威に出会うとはじめて自分の弱さ、小ささに気づく。言うならばそのときはじめて人間は本当の自分に気づくのである。そして、そのとき、人間は神の声を聞き取ることができるのである。」

震災など自然災害は、私たちにそのことを体験させます。私たちは痛いほど、人の弱さ、小ささに気づかされます。私の神学校の先生は、

「病気や死は、私たちが神ではなく、『人間である』ということを知らせるものだ」

と言っていました。
「人は人であり、神は神です。」

ヨブ記 35:1-37:24

「これに耳を傾けよ。ヨブ。神の奇しいみわざを、じっと考えよ。」(37:14)

ヨブは三人の友人との対話の中で、自分のことでいっぱいになっていました。「因果応報」を絶対視する友人たちは、ヨブに非を認めさせようとしました。ヨブはそのことに疑問を呈し、「自分の何が悪かったのか?」と神に訴えます。私たちも同じように自問する時があるのではないでしょうか。しかし、そんなヨブの視点を変えるようにエリフは訴えます。

「神が嵐を起こすのは懲らしめのため、また、いつくしみで人々を元気づけるためだ。」(13節LB)

神の知恵を人は理解することはできません。エリフはヨブに、人間のはかない知恵で悟りを開こうとすることをやめて、神の素晴らしい御業を考えるように勧めたのです。私たちは自分を主体として世界を考えることをやめて、神を認め、神の御業を考える必要があります。「私」ではなく「神が」何をしてくださったか、十字架の御業をじっと考えることが大切です。

ヨブ記 33:1-34:37

「神はある方法で語られ、また、ほかの方法で語られるが、人はそれに気づかない。」(33:14)

簡単に言うと、神の方法は私たち人間には分からないということです。イザヤ書でも、神がはっきりとおっしゃっています。

「わたしの計画はあなたがたの計画と違い、わたしの思いはあなたがたの思いと違う。天が地より高いように、わたしの道はあなたがたの道より高く、わたしの思いはあなたがたの思いより高い。」(55:8,9LB)

ヨブは、「因果応報」という発想から解放される必要がありました。エリフは、前の三人とは違って、痛みにも意味があるかもしれないことをヨブに伝えます。苦しみがもたらすものとして、26節で彼はこう言います。

「彼が祈ると、神はすぐさま答え、喜んで彼を受け入れ、彼を元の働き場に戻す。」(LB)

「なぜ?」と答えが得られない質問を繰り返すのではなく、「神に祈るべきだ」と彼は言います。

ポコのその後

昨年の終わりごろ、この場で我が家の老猫ポコがもう余命いくばくもなさそうだという話を書きました。何も食べなくなり、がりがりに痩せて一日中寝て過ごしていることからそう思っていました。が、最近、もしかしたら餌が気に入らなかっただけだったのではという疑惑が浮上しました。固形の餌が食べれなくなってからずいぶん経つのですが、ペーストのものも食べなくなったので覚悟していたのです。ところが、ちょこっといい別のペースト餌にしてみたところものすごい勢いで食べ始め、お代わりを要求。こんなに痩せても気に入ったものしか食べないなんて、マリーアントワネットか!と思った次第です。こんなポコから学ぶことは正直何もありませんが、ぶれない姿勢だけは伝わりました。クリスチャンにとってぶれない姿勢とは、聖書の御言葉に対する真摯な向き合い方だと思います。フェイクにあふれたこの世の中で本物をしっかりと握ること。信仰ががりがりに痩せてしまうことがないように、本物の御言葉の糧を毎日きちんといただいていきましょう。(小山晶子牧師婦人)

ヨブ記 30:1-32:22

「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。」(32:8)

今日の箇所で、突然、エリフという人物が登場します。彼はここまで、名前も存在も出てきません。この後も出てきません。ですから、エリフの発言をどう理解するか様々な見解があります。しかし、ここにヨブ記のもう一つのテーマがあります。それは、「神は神であり、人は人である」ということです。「この世の知恵」と「神の知恵」には、確かに違いがあります。人は、そもそも「全能者の息」によって「生きた者」(創世記2:7)となりました。ですから人は「全能者の息」によって「理解」が与えられます。ペンテコステの日、共に集まり、祈っていた120名の兄弟姉妹の上に聖霊が臨まれました。その時、まさに、「全能者の息」によって、人々は理解する力も与えられました。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!