出エジプト 25:1-26:37

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(25:8)

LBではこの箇所をこう訳しています。

「わたしがイスラエルの民の中に住めるよう、聖なる住まい(幕屋)を造りなさい。」

ヨハネの福音書にはこう書いてあります。

「ことばは肉なる人となって、われわれの間に幕屋を張った。」(1:14岩波訳)

ですから、私たちが幕屋を造るのではなく、イエス・キリストが受肉と十字架の御業によって幕屋を張られたことを信仰をもって受け入れることが大事なことです。それから、今、キリストの見える体である地域教会を建てあげていくことは大切なことです。キリストの御名によって集まるそのただ中にキリストはおられると言います。また、詩篇22篇にはこう記されています。

「イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(3節)

私たちが賛美を神に捧げるそのただ中に聖なる住まいが造られ、神の臨在が満ち溢れます。

出エジプト 23:1-24:18

「あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。」(23:19)

聖書は私たちに残り物ではなく、初穂の最上のものを主に捧げるように命じています。ちいろば先生(榎本保郎師)はこう言います。

「よく教会の礼拝のとき、献金の祈りの中で『このわずかなものを』と祈る人がある。謙遜な気持ちはわかるが、すべてを見通される神の御前にこのような言葉は不必要ではないかと思う。むしろ、こうした祈りがたえず繰り返されている間に、献金はすこしでいいのだといった思いがどこかに生まれてくるならば、まことに不幸なことである。神がかけがえのないひとり子を賜ったという聖書のメッセージを信じるとは、自分もかけがえのないものを主にささげることである。信仰は神と私たちの間の生きた関係である。そのゆえに、献金は私たちの信仰にとって大切なものである。」

神に最上のものを捧げる姿勢を持つことができますように。

ブログをはじめました。

先週一か月ぶりに病院へ行ってきました。一昨年の6月から数えてもう一年半以上通っていることになります。抑うつ状態はずいぶん改善し、薬の量も減ってきてそろそろ仕事ができるんじゃないか、何か始めたいな、という気持ちがふつふつと湧いてきています。それと同時に、また同じような状況になって周りに迷惑を掛けたくない、という思いもありタイミングが難しいなあと感じています。注意欠陥の症状も劇的に改善し、家のことも教会のこともあまり悩まずこなせるようになってきました。皆さんの沢山の愛と背後の祈り、ご配慮に心から感謝します。そんなわけで(?)、ブログをはじめてみました。いますぐに外で働くことは無理ですが、書くことは嫌いではないのでこれまでの経緯や抑うつ、発達障害と診断されてからのことなどを徒然なるままに書いています。特にADHDに関しては悩んでいる人も多いんじゃないかと感じています。もしよろしければお読みくださいね。アメーバブログlyreakikoで検索してみてください。今週も守られますように! (小山晶子牧師婦人)

出エジプト 21:1-22:31

「もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」(21:32)

奴隷の値は銀貨三〇枚と言うことです。ゼカリヤ書にこんな箇所があります。

「彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』」(11:12,13)

神に対し、イスラエル人がつけた値は奴隷の値だったと言うのです。これは

「神の愛に対する罪人の嘲笑的評価の象徴」

です。イスカリオテのユダは、キリストを銀貨三十枚で売りました。(マタイ26:15)つまり、人々はイエス・キリストに、嘲笑的評価を下したということです。イエス・キリストは私たちを愛するがために、そこまでご自身を低くされました。

今日は主の日。私たちをそこまで愛してくださる神に、共に礼拝を捧げましょう!

出エジプト 19:1-20:26

「そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。」(20:21)

20章は有名な「十戒」が記されています。神が十戒を与えた時、

「民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。」(18節)

とあるように、それは恐ろしい、震え上がるような光景だったことが想像できます。この箇所で興味深いのは、

「神のおられる暗やみ」

という表現です。私たちは神がおられるところに暗やみはないと考えます。しかし、モーセは暗やみに近づいて行ったとあります。暗やみだからといって、神がそこにおられないわけではありません。イエス様が十字架で死なれた時、全地は暗やみに包まれ、誰もが神の不在を感じました。しかし、神はそこにおられました。真暗闇の中に神はおられ、救いの御業が成し遂げられました。私たちは今暗闇のような十字架から神を見ることができます。

出エジプト 17:1-18:27

「ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。」(17:10)

ヨシュアが戦っていたのですが、丘の頂に登ったモーセたちの祈りが戦いを左右しました。それは、丘に登って祈ればすべてが解決するということではなく、ヨシュアが戦ったように、現実に戦う必要があることも、私たちに示唆しているように思われます。教会は、祈祷会も大切ですし、実践的な働きもする必要があります。モーセはまた、一人で丘に登ったわけではありませんでした。一人で祈ることも大切なことですが、一緒に祈ることも大切なことです。祈祷会は、共に丘に登って、祈るようなものだと思います。私たちの祈りがこの日本を左右するとするならば、私たちは祈りの手を下げずに、支えあって、祈り続ける必要があることがわかるのではないでしょうか。教会は、祈りの勇士をいつも必要としています。神は私たちの祈りを用いられます。

出エジプト 15:1-16:36

「主はモーセに仰せられた。『見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。」(16:4)

神が与えてくださった食物は一日分でした。私たちは日ごとに神が与えて下さる食物、みことばをいただく必要があります。「過去にたくさん聖書を読んだから、今はもう毎日読まなくてもいい」ということにはなりません。神は朝ごとに彼らに新鮮な食物を与えてくださいました。同じように神は今日も新鮮なみことばを聖書を通して私たちに与えてくださっているのです。神はこの約束を「エジプトのほうが食べ物があって良かった」と不平不満を言う人々に与えました。彼らは荒野の中で紅海の奇跡も忘れ、乳と蜜の流れる地に対する約束さえも忘れていました。過去を美化しても何も始まりません。毎日、新鮮な主のみことばをいただくことができますように。

出エジプト 13:1-14:31

「主はモーセに仰せられた。『なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。」(14:15)

目の前は紅海、後ろからはファラオの軍隊が迫ってくる中で、イスラエルの民は混乱し、モーセを責めます。LBではこの箇所をこう訳しています。

「主はモーセに命じました。『いつまでもわたしに叫び求めていないで、人々を前進させなさい。」

もちろん、祈ることは大事なことです。しかし、神は同時に行動を起こすように言われます。私たちはまず祈るべきです。しかしそこで終わらずに、神のみことばに生きることに挑戦していくべきです。みことばに従って前進する時、目の前の水は分かれて道ができます。「神様が何もしてくれない」とただ嘆いていないでしょうか?聖書を読み、聖書のみことばに生きる時、目の前の水は分かれます。私たちはみことばによって前進していかなければなりません。

出エジプト 11:1-12:51

「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」(12:13)

イエス・キリストの十字架の御業の背景には、この出エジプトの話があります。イエス・キリストが血を流して十字架で死ななければならなかった理由がここにあります。血を見て過ぎ越す(pass over)という、ここから「過ぎ越し」の祭りは来ています。最後の晩餐は、このことを象徴する「過ぎ越し」の食事です。この箇所を理解しなければ、ヨハネ3:16

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

は分かりません。イエス・キリストが十字架の上で血を流されたがゆえに、イエス・キリストを信じる者に「滅びのわざわいは起こらない」。

出エジプト 9:1-10:29

「わたしのような者は地のどこにもいないことを、あなたに知らせるためである。」(9:14)

神がエジプトに災害を与えた理由の一つは、

「この世界にわたし以外に神がいないことを教えるためだ」(LB)

と聖書は言います。パロは言いました。

「主とはいったい何者か。私がその声を聞いてイスラエルを行かせなければならないというのは。私は主を知らない。」(出5:2)

パロは、この十の災害を通して、まことの神を知ります。そして、私たちもこの出エジプト記の内容を知ることによってまことの神を知らされます。箴言9:10にこういう箇所があります。

「知恵の基本は、主を恐れ、大切にすることです。物事がよくわかるようになりたければ、まず神を知りなさい。」(LB)

私たちは今、イエス・キリストを通してこの真理を知ることができます。