アローマのこと

先日玉川聖学院でクリスマスコンサートをリラとして行ってきたことはこの場でも書きましたが、実はその時にとてもうれしい出会いがありました。私がまだ中高生のころ、母教会に賛美奉仕に来てくれた三人グループ「アローマ」の大ファンになりました。その歌詞にも、曲にも、トークにも、ちょうど多感な時期にとても良い影響を受け、ずっと励まされてきました。その中心的なメンバー正田さんの息子さんが教師として玉川聖学院で働いておられたのです。ひょんなことからその話題になり、大興奮でどれほどアローマが好きだったかということをお話したのですが、なんと!後日正田さんご本人から連絡をいただき、楽譜やCD、直筆のお手紙までいただいたのです。しかも、リラのことを知っておられたようで、嬉しいやら恥ずかしいやら。アローマがずっと活動を継続しておられることにもさらに励まされました。リラがあの時の私のように、誰かの励ましや信仰生活の支えになれたらと願います。ちなみにアローマの内2人は献身し牧師となってそれぞれ遣わされた教会で奉仕しておられます!(小山晶子牧師婦人)

黙示録 14:14-15:8

「彼らは、神のしもべモーセの歌と小羊の歌とを歌って言った。「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。」(15:3)

モーセは旧約聖書を代表する人物。小羊であるキリストは、新約聖書を代表する人となられた神の御子。ですから「モーセの歌と小羊の歌」は、いつの時代でも、神の民が歌うように与えられた歌と言えます。この歌は、神がどのようなお方か、その告白です。告白の一つは「万物の支配者である神」「全能者なる神」(新改訳二〇一七)です。私たちは、全能者なる神が共におられ、私たちを助けてくださり、見守ってくださるという歌を聞き、歌い続ける必要があります。今日はクリスマス礼拝。共に、インマヌエル(神が私たちとともにおられる)と呼ばれる主に礼拝を捧げましょう!

※ 本日の栄シャローム福音教会はクリスマス特別礼拝。第二礼拝後に祝会があります。17時から港南台高島屋前でキャロリング。(第三礼拝はお休み)

黙示録 14:1-13

「また私は、もうひとりの御使いが中天を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。「神を恐れ、神をあがめよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源を創造した方を拝め。」(14:6,7)

永遠の福音をイザヤはこう預言しています。

「良い知らせ(福音)を伝える人の足は山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う人の足は。」(新改訳二〇一七)

福音を受け入れた人は創造主を神として恐れ、あがめ、礼拝を捧げます。しかし、この天の現実が、この地上に浸透していくには、信仰者の忍耐が必要だと言います。

「ここに、聖徒たち、すなわち神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける者たちの忍耐が必要である。」(12節・新改訳二〇一七)

※ 明日のSSCはクリスマス特別礼拝。第二礼拝後に祝会があります。17時から港南台高島屋前でキャロリング。(第三礼拝はお休み)

黙示録 13:1-18

「ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。」(13:18)

歴史を通じ「666」は誰を指しているのか、研究され続けてきました。(リストは現在も進行中です。)日本の代表的な伝道者だった沢村五郎先生はこんなことを言っています。

「患難の中にある時、しばしばそれが永遠に続くもののように感じられるものですが、悪の力は必ず666です。」

つまり、「666」とは「制限された不完全数」であり、完全ではない、必ず終わりが来るという意味だと言います。獣は完全ではない。獣にも終わりの時が来ると言うのです。私たちが日常直面する問題も、終わりがない、完全なもののように思ってしまうことがあります。自分にはどうしようもない、圧倒されるような存在、出口が見えないような問題があると。しかし、それは、「制限された不完全なもの」です。神の時は必ず来ます。

黙示録 12:1-13:1

「この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。」(12:2)

ここに出て来る「女」はイスラエルの国、生まれてくる「男の子」はイエス・キリストを指していると多くの学者は考えています。実際、イスラエルの民族ほど、歴史上何度も滅ぼされそうになりながら存在し続けている民族は他にはありません。
ここで注目すべきことは、「この女」は、産みの苦しみと痛みで終わったわけではなく、五節に、「女は男の子を産んだ。」とあります。つまり、産みの苦しみの先には、「出産日」がくるということです。キリスト教会は、日曜日に礼拝をもっています。その理由は、キリストが死の力を打ち破って復活されたのが日曜日であり、キリスト教会は、今生きておられるイエス・キリストを礼拝するからです。日曜日は、復活の象徴、勝利の象徴です。悲しみが喜びに、嘆きが歌に変わる日は必ず来ます。

黙示録 11:1-19

「それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。」(11:19)

「天にある神の神殿が開かれて、契約の箱が見えた」というのは、旧約聖書では考えられない内容です。これは旧約聖書では、年に一回だけ、大祭司だけがいけにえを携えてのみ見ることができた光景でした。契約の箱が意味しているのは、もちろん、神と人との契約、約束です。つまり、「神の約束は永遠に変わらない」ということを意味しています。聖書は言います。

「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル13:8)

イエス・キリストにある新しい契約も変わることはありません。世界は預言された方向へと向かっています。しかし、私たちを愛し、私たちのこの人生にさえも関心をもっておられる永遠に変わらない主は生きておられます。

黙示録 9:13-10:11

「これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。」(9:20,21)

黙示録の九章は、第五、第六のラッパの裁きについて語られています。地獄が開かれ、悪魔的な力が人間を襲います。そして、最終的に人類の三分の一が殺されるとあります。残りの三分の二は、これらのことを見て、神にあわれみを求めて、罪を悔い改めて立ち返るだろうと私たちは考えます。しかし、そうではないと言います。彼らは神をののしり、偶像礼拝をやめないと言います。これは、単なる未来の話ではありません。現代にも、同じ問題があります。モレクという名前の神々を拝んでいなくても、もし快楽を目的に生きているなら、同じことです。悔い改めとは考え方を変えることです。神中心の生き方に変えることです。

黙示録 8:1-9:12

「また、もうひとりの御使いが出て来て、金の香炉を持って祭壇のところに立った。彼にたくさんの香が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある金の祭壇の上にささげるためであった。」(8:3)

祈りは神からの素晴らしい贈り物です。創造主が私たちの言葉に耳を傾けてくださるという現実は想像を超えています。祈りはまた特権です。神は私たちの祈りを貴ばれます。それは、麗しい香りだと言います。祈りは礼拝です。それは、神の足許に座ることであり、神を愛することです。祈りのもっとも一般的な形式は願いだと思います。私たちは祈りを通して神に願い求めます。神は私たちにとっての最善をもって答えられます。祈りはまた、とりなすことでもあります。自分の必要を超えて、他者の必要のためにとりなすことは大切なことです。祈りは対話でもあります。私たちは神に語りかけるだけでなく、祈りの中で静まって神に聞くことも重要です。

どこまでやるべきか

我が家の老猫(一六歳)ポコの調子が最近良くありません。
一日中寝ているのは以前からでしたが、痩せてきて、毛艶も悪く、呼吸が深くて速いうえに瞳孔が開きっぱなしなのです。毎日注意深く様子を見ていますが餌もほとんど食べなくなっているので、たぶんあまり長くないな、という感じがします。そんなポコの側で今書いています。車も病院もとても嫌がるので、このまま家で命を全うできるようにと考えています。どこまでやるべきか、ということはこのことに限らず全ての「関係」において悩むところだと思います。できれば後悔したくないし失敗もしたくない。でもこれが正しいかどうかわからない。そんなとき皆さんはどうしていますか?わたしはその時に導かれていると感じたことを実行するようにしています。祈って、考えて行ったことを神様は絶対に悪いようにはなさらないと信じているからです。祈りの中で神様が私たちに行いなさい、と言われていることがあると思います。そのことを実行に移す勇気と力を神様が与えてくださいますように。(小山晶子牧師婦人)