2コリント 13:1-13

「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(13:13)

聖書の神は三位一体なる神です。唯一の神ですが、子なる神キリスト、父なる神、聖霊なる神の三つの位格があります。このことを知的に理解することができないために、学者の中には三位一体を否定する人たちがいます。しかし、聖霊なる神は、はっきりとこの祈りのことばを使徒パウロに書き記させました。私たちが持つ知性で把握することが出来ないからと言って、神のご性質が変わることはありません。神は神であり、三位一体なる神です。コリントの教会に対して、パウロは厳しい言葉を並べてはいましたが、恵み、愛、交わりという三つを一つとしてまとめているところに、教会のあるべき姿を教えられます。

2コリント 12:11-21

「使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。」(12:12)

コリント人への手紙が書かれた理由の一つは、パウロの使徒職に疑問を抱く人たちに対する弁明です。いわゆる「超大使徒様」(11節)がパウロの権威に関してコリントの教会の人たちが疑問視するように仕向けたのです。それで、パウロは使徒としてのしるしを挙げます。それは単なる「奇蹟と不思議と力あるわざ」ではなく、

忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざ」

です。「忍耐」は1コリンント13章の愛の賛歌にも出てきますし、ガラテヤ5章の御霊の実の一つにも出てきます。教会の働きは忍耐が必要です。聖霊の働きを忍耐強く行っていることこそ、使徒である証拠と言う聖書のみことばを心に留める必要があります。

2コリント 12:1-10

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(12:9)

パウロには問題がありました。多くの学者は、目の問題だと考えていますが、はっきりと分かってはいません。神は彼を用いて多くの人をいやされましたが、彼はいやされませんでした。「いやしてください」と何度も祈った彼に神はただこう言いました。

「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」(LB)

私たちに弱さがあるからこそ、神の力が輝きます。自分に足りなさがあるからこそ、神の偉大さが現されます。マイナスは必ずプラスになります。

「なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

2コリント 11:16-33

「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」(11:29)

今日の箇所をLBではこう訳しています。

「誤った道を進んでいる人を見て、悲しまないでいられるでしょうか。倒れている人を見て、知らん顔ができるでしょうか。精神的に痛手を受けている人を見て、傷つけた相手に激しく怒らずにいられるでしょうか。」

この表現に使徒パウロの教会に対する思いを見ることができます。いや、使徒パウロに与えられたキリストの教会に対する思いを見ることができます。教会は、キリストの花嫁だという箇所があるように、神にとって教会は、あってもなくてもいい存在ではありません。西洋の個人主義の影響で、信仰の個人的側面が過度に強調され、地域教会を過小評価する傾向が強くなっていますが、それは、神の思いではありません。「主よ、あなたの教会を大切にできますように。」

あれもこれも

台風21号の直撃によって西日本や東海地方は大きな被害を受けました。飛ばされていく屋根や自転車、横転するトラック。あれもこれも飛ばされて、さながら地球滅亡の映画を見ているようでした。数日待たずに今度は北海道での大地震。日本はどうなってしまうんだろう、と思った方も少なくないはずです。でも、様々な状況を目の当たりにしてこうも思うのです。この世界はやがて終わるのだ、と。私たちに寿命があるようにこの世界にも寿命があるのだ、と。イエス様ご自身も「この天地は滅びます。」とはっきりおっしゃっています。そしてこうもおっしゃっています。「あなた方の心が放蕩や深酒やこの世の思い煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように突然あなた方のところに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。その日は全地の表に住むすべての人に臨むからです。」当たり前だと思った日々がある日突然終わるのだ、とイエス様は警告しています。考えたくないかもしれませんがこれが聖書に明確に記されていることなのです。 (小山晶子牧師夫人)

2コリント 11:1-15

「私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。」(11:5)

「大使徒」と訳された単語は、「超大使徒様」と訳すことができますが、パウロの皮肉です。パウロがコリントの教会を去った後、パウロよりも印象的で人目を引く伝道者が来ました。人々はこの伝道者のカリスマ性に魅了されてしまいます。問題は、この人物が

「私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり」(4節)

したことです。手紙を読めば浮き彫りにされる異なった福音とは、十字架のない福音です。苦しみのないイエス様、ことばにならないうめきをもってとりなすことのない聖霊です。苦難のキリストを本気で信じるならば、その御跡に従うならば…パウロのように、「十字架なくして冠りなし」となります。「超大使徒様」はこれは「良い話」ではないと変えてしまったというわけです。しかし、教会は十字架の福音を語り続けなければなりません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2コリント 10:1-18

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(10:5)

今日の箇所を直訳しますと、こうなります。

「神の知識に反対するあらゆる高慢、そして、すべての思考を捕らえてキリストに従順するように連行する」。

この世界には様々な考え方がありますが、私たちは聖書的な信仰に自分の考え方を捕らえて連行する必要があります。自然に身につくというものでもありません。私たちはそのための道具が必要です。畑を耕すためには鋤が必要です。勉強をするためには本が必要です。料理をするためには鍋が必要です。祈るためには信仰が必要です。同じように、私たちの考え方を聖書的な信仰に捕らえて連行していくために、道具が必要です。教会に集うこと、聖書を読むこと、祈ること、聖書的な説教(メッセージ)に耳を傾けることなど、私たちは自分の考えを聖書的な考え方に連行する道具が必要です。

2コリント 9:6-15

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(9:10)

このみことばが意味することは、収穫は自分が蒔く種よりも多いということです。しかし、蒔くことをしなければ、収穫を体験することはできません。信仰の世界と言うのは、そのようなものです。理解できたら信じるというのではなく、信じていくときに理解することができます。ここでは、献金という文脈で語られています。献金の恵みは、大変な状況の中でも信仰をもってささげていくということを実践しなければ体験できない世界です。厳しい状況の中でも捧げて行くときに、まさに、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」という世界を体験します。よく言われることですが、一個のりんごの中にある種の数は数えられても、その種から生み出されていくりんごの数を数えることはできません。

2コリント 8:16-9:5

「それは、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大なことを示そうと考えているからです。」(8:21)

献金は神に捧げられるものですが、その取り扱いをするのは人です。ですから、パウロは

「主の御前だけでなく、人々の前で正しくあるように心がけているのです。」(新改訳二〇一七)

と言います。教会の運営は、まず何よりも神の御前に正しくなければなりません。ただ、神のみこころを現すことができないような人間中心の運営になるならば、それはもう教会とは呼べません。しかし、主の御前ばかりでなく、人の前でも公明正大であることを心がける必要があります。どう取り扱うかに関しては常に説明責任が伴います。いずれにせよ、献金は自発的なものであり、嫌々するものではありません。ですから、パウロはこう勧めます。

「惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。」(9:5新改訳二〇一七)

※ 神様のあわれみと特別な助けが、北海道にいらっしゃる皆様のうえにありますように、

2コリント 8:1-15

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)

この箇所でパウロが言う「神の恵み」とは「献金」のことです。ここでは特に「マケドニヤの諸教会に」とありますが、ピリピの教会のことです。

「多くの試練や困難のただ中にあったマケドニヤの諸教会が、ひどく貧しいにもかかわらず喜びに満ち、その結果、あふれるほど惜しみなく、他の人々に施すようになりました。」(2節LB)

パウロはピリピ書で彼らのことを言っています。

「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

経済的に困窮している人であっても献金を勧める理由は豊かな報いがあるからです。献金は人や組織ではなく、神に捧げるものだからです。ですから献金は私たちに与えられた神の恵みの世界です。