エペソ 1:1-23

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(23節)

教会とは何か?まず、第一に教会は「キリストのからだ」です。「頭」はキリストです。教会は同好会やクラブとは違い、「頭」であるキリストのみこころを行なう集まりです。ですから、「頭」であるキリストのみこころを求めて、祈りつつ、聖霊に導かれて歩む集まりです。神のことばである聖書が最高権威です。第二に、教会は、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」です。イエス・キリストの臨在が満ちていることが教会を教会とします。神は「賛美を住まいとする」と聖書は言いますから、賛美に満ちている集まりです。キリストが「わたしがわたしの教会を建てる」とおっしゃられたことを覚えつつ、教会のために祈りましょう

ガラテヤ 6:1-18

「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。」(6:1)

「メッセージ」という訳では、一節をこう訳しています。「友よ、創造的(クリエイティブ)に生きなさい。もし、誰かが罪に落ちたなら、赦しつつ回復させなさい。あなたの批判的なコメントは自分自身のためにとっておきなさい。あなたがその日が終わる前に必要かもしれないからです。」つまり、聖書的に「御霊の人」、「霊的な人」は、自分の弱さを知っている人であり、批判的にならずに、赦しの心をもっている人だと言います。ガラテヤの教会の人で、過ちに陥った人がいたのだと思われます。パウロはその人を責めるのではなく、聖霊の実である柔和をもって、その人を受け入れ、回復させなさいと言いました。これが、「御霊の人」の集まりである、教会のあるべき姿です。

ガラテヤ 5:7-26

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(5:15)

ガラテヤのクリスチャンたちは、互いに、いがみ合ったり、非難し合っていました。手紙全体から想定できることは、ガラテヤのクリスチャンたちは、ユダヤ民族のしるしであった、割礼や食物規定などの「律法の行ない」によって、神との関係に安心感をもっていました。この「律法の行い」が皮肉にも踏み絵となり、互いを裁き合う結果になっていました。割礼を受けたら一流、割礼がなければ二流。パウロは、クリスチャンのしるしは「律法の行い」ではなく、「聖霊の内住」だと訴えます。神が望んでおられることを一言でまとめるなら、「互いに愛し合うこと」だと言います。パウロの「皮肉」が聞こえてくるように感じます。「それでは、本当に律法を守っているとは言えないですよ。」

ガラテヤ 4:21-5:6

「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(5:6)

「キリスト・イエスにあって」ということは、キリスト・イエスの中にあるということです。キリスト・イエスの中に在るかどうかが大事であり、割礼の有無ではありません。割礼はキリストの立場を決定しません。「愛によって働く信仰」ということは、「愛が働いてその存在を発揮する信仰」という意味があります。神がイエス・キリストを遣わして私たちに永遠のいのちをもたらしてくださったその動機は、「愛」でした。私たちの信仰というのは、この神の愛を通して働くものです。ですから、パウロはこのように祈っています。「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ三・十九)信仰が働くためには、キリストの愛を知る必要があり、キリストの愛を知るためには、「祈り」が必要です。

ガラテヤ 3:26-4:20

「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(4:6)

「神」が主語です。新改訳二〇一七ではこう訳しています。

「神は『アバ、父よ』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。」

聖霊は、「アバ、父」と叫ばせる、私たちを祈りに導かれるお方だと言います。つまり、父なる神に祈りを捧げることは、聖霊が私たちの内に住まわれている証拠ということです。聖霊が私たちの心の中に住んでおられるから、私たちの内側から祈りが沸きあがってくるということです。それは、「洗練された言葉」として湧きあがることもあれば、日本語としては意味をなさない、叫びでしかない、いわゆる「異言」のこともあります。大事なことは、聖霊に導かれて祈ることです。

ガラテヤ 3:11-25

「私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。」(3:17)

神はまず、アブラハムと約束をしました。その後、アブラハムの子孫たちがエジプトで奴隷生活を強いられました。神の信実のゆえに、神はモーセを指導者として遣わし、彼らを解放しました。その時、彼らは神から律法をいただきました。ですから、まず、律法ありきではなく、約束ありきです。これは、信仰生活を歩む上で重要です。まず、イエス・キリストを信じるだけで救われるという神の約束があります。「こうした方がいい」というものはあります。しかし、まず、約束ありきです。失敗したからと言って、無効になるわけではありません。私たちの弱さ、欠けのゆえに、取り消されることはありません。

戻りたい過去

皆さんは戻りたい過去がありますか。
先日長男とこの話になりました。さかのぼって戻ってやり直したい時代があるか、という話の中で私にも長男にもそんな過去がないということが判明し、笑ってしまいました。結論は「今が一番いい」というところでしょうか。あの時ああすればよかった、こうすればよかった、あんな経験しないほうが良かった、あんなこと言わなきゃよかった。わたしにもそんな思いがないわけではありません。けれどもその失敗や痛み、後悔、その一つ一つが今の私に至るために必要なことだったと思うのです。何よりも、全てを働かせて益と変えてくださる主にお任せできることは本当に幸いなことだと思います。実は今も、大きな試みの中にいます。でもこの出来事もやがて益となることを知っているのです。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがあることをこれまでの歩みの中で学び、体験的に知っています。皆さんの今の痛みもやがて喜びへと変えられていくことを信じます。
(小山晶子牧師夫人)

ガラテヤ 2:11-3:9

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(2:20)

「神の御子を信じる信仰によっている」と訳された言葉は、

「神の御子の信実の中でわたしは生きている」

と訳すことができます。信仰生活は、もちろん、イエス・キリストを信じる信仰によって生きていくという側面があります。しかし、同時に、それは、イエス・キリストの信実、私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたという神の御子イエス・キリストが成し遂げられた救いの御業の中で生きていくという側面があります。いずれにせよ、イエス・キリストの十字架の御業が、私たちの生きる原動力です。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

ガラテヤ 2:1-10

「ただ私たちが貧しい人たちをいつも顧みるようにとのことでしたが、そのことなら私も大いに努めて来たところです。」(2:10)

日本では、字を読めない人も電気を使えない人もほぼ0%ですが、たとえば、バングラデシュでは、字を読めない人は41%、電気を使えない人は40%います。毎日食事を食べることが普通ではない国の人たちがいます。また、聖書にはこのように記されています。

「貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」」(申命記15:11)

「貧しい人たちを援助することをいつも忘れないように」(LB)

と、聖書は私たちに訴えています。

ガラテヤ 1:1-24

「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(1:17)

アラビアとは、パウロにとっての退修(リトリート)の場所でした。私たちも日常から退却して神との時間をとるアラビアが必要です。友人や家族や批判者の言葉ではなく、神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。静かな部屋で神との時間をとるならば、その場所がアラビアとなります。そのような意味で、日曜日の礼拝の時間もアラビアとなります。私たちは、神が愛されていること、赦されていること、受け入れられていることを自分の心に浸す時間が必要です。パウロは焦って自分の働きに出て行くことはしませんでした。彼は神が働かれていることを知っていました。神が彼を必要としているのではなく、彼が神を必要としていたのです。アラビアは、パウロにとって、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。