箴言 17章

「陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。」(22節)

神様が造られた私たちの身体は、本当におどろくような造りになっています。私たちの身体の中には、物質を作って、それを流すというようなシステムがあります。たとえば、私たちが幸せな時には、私たちの身体は私たちに良い物質を作り出します。お医者さんたちも、幸せが身体をさらに健康にさせるということを発見しています。逆に、悲しみに沈んだりすると、私たちの身体は私たちによくない物質を作り出してしまいます。私たちの身体は、私たちの心の状態に大きく影響されるというのです。

「心が陽気になれば体も健康になり、気がふさげば病気になります。」(LB)

ヘレン・ケラーが言ったように、

「私は、キリストにあって幸せです。」

と告白することは、とてもいい健康法です。

今日は主の日。共に主に、感謝をもって礼拝を捧げましょう。

※ 本日のSSCの第三礼拝(18時から)はお休みです。

箴言 16章

「正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。」(8節)

天国で一番貧乏な人になるほうが、地獄で一番裕福な人になるよりもはるかに勝っています。モーセは、エジプトの王子として裕福な生活をしていました。しかしモーセは、

「はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」(ヘブル11:25,26)

神が私たちに与えてくださるものは、この世が私たちに与えるものよりもはるかに勝っているのです。ですから聖書は言います。

「人をだまして大もうけするより、わずかずつでも正直に稼ぐほうがましです。」(LB)

箴言 15章

「悩む者には毎日が不吉の日であるが、心に楽しみのある人には毎日が宴会である。」(15節)

「黒猫が自分の前を横切ると悪いことが起こる」という迷信を聞いたことはありませんか?私たちは多かれ少なかれ、育っていく中で「こうすると何か悪いことが起こる」という迷信に影響を受けてはいないでしょうか。どんなに小さな出来事でも、悩み始めると雪だるま式に大きくなっていきます。何の根拠もない迷信に影響されて日々を過ごすことほどもったいない生き方はありません。『根拠のない』迷信に汚染されていないでしょうか。聖書が明確に私たちに語っていることは、神が私たちを愛し、気にかけ、必要を備え、将来と希望の計画を持っておられるということです。イエス・キリストが私たちの心に住んで下さるなら、私たちの心に楽しみがあります。キリストと共にある人生は、毎日が宴会です。

箴言 14章

「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(4節)

確かに、牛がいなければ飼葉おけは汚れることはありません。しかし、それでは飼い葉おけの意味がありません。たとえ飼葉おけが汚れたとしても、牛が存在していることに意味があります。同じように、教会も人がいなければ問題は起きないかもしれませんが、人がいなければ教会の意味がありません。たとえトラブルが起こったとしても、様々な人が教会に存在していることに意味があります。私たちが生きている限り、問題がなくなることはありません。しかし、それでも生きていくことに意味があります。LBでは、次のように訳しています。

「働かなければ、手を汚さない代わりに収入もありません。」

すべてのマイナスはプラスになります。

箴言 13章

「高ぶりは、ただ争いを生じ、知恵は勧告を聞く者とともにある。」(10節)

高ぶり、傲慢は、争いへと導きます。高ぶっている人はいつも、競争心に満ちています。自分が一番だということを証明するチャンスを探しているのです。争いや口論に巻き込まれているときほど、自分が高ぶっていないか、謙遜に「神様、示してください」と祈り求めることが大事です。高ぶりに勝つことができれば平安が結果としてついてきます。「知恵は勧告を聞く者とともにある」と言います。聖書の知恵はこれです。

「人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです。」(Ⅰコリント8:2)

「自分に自信がありすぎる人は、なかなか主張を曲げません。素直に忠告を聞く人は賢くなります。

箴言 12章

「人は悪をもって身を堅く立てることはできず、正しい人の根はゆるがない。」(3節)

この世を見ると、悪いことをして成功しているように見える人がいます。しかし、悪をもって身を堅く立てることはできません。悪いことをしていて、人生が安定することはありません。たとえ、しばらくのあいだ大丈夫に見えても、正義は必ず追いついてきます。それは、砂の上に人生を築き上げるようなもので、必ず、崩れ去るときが来ます。正しいことを行うことだけが、しっかりとした土台に築き上げることができる方法です。正しい人の根はゆるぎません。しかし、この世で生きていく中で正しく生きることがばからしく見えるときがあります。ですから聖書は言います。

「正しい人はその信仰によって生きる。」(ハバクク2:4)

箴言 11章

「おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」(25節)

リビングバイブルでは今日の箇所をこう訳しています。

「物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。」

寛大に生きることは、聖書的な生き方です。聖書に、こういう箇所もあります。

「気前よくささげる人は、大きな祝福を受ける。」(Ⅱコリント9:6現代訳)

与える人は与えられるというのが聖書が教える霊的な法則です。もちろん、献金の話だけではなく、笑顔や祝福などを惜しみなく人々に与えている人が、大きな祝福を受けます。なぜなら、「気前よく与える」というのは、神のご性質でもあるからです。神は、物惜しみすることなく、私たち一人一人に今日も寛大に与え、私たちを潤してくださっているからです。

「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)

箴言 10章

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(12節)

私たちの人生を破壊するのは憎しみの力です。ハ・ヨンジョ先生はこのようなことを言いました。

「サタンは私たちに憎しみと怒りを植えることによってこの世を地獄にしようとし、神様は私たちの心に愛と赦しを植えてこの世を天国にしようとしている。」

神の御子イエス・キリストは、不当にも訴えられ、嘲られ、十字架につけられました。憎しみを抱いたとしても、決して不思議な状況ではありませんでした。しかし、こう言われました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

憎しみは憎しみを生み、憎しみの連鎖はこの世を地獄にするだけです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、この憎しみの連鎖を打ち破るためでした。神の愛はこの世を天国へと変えます。今日は主の日。主に共に礼拝を捧げましょう。

箴言 9章

「あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。」(8節)

LBで7節と8節をこう訳しています。

「人をさげすむようなような者に忠告を与えても、辛辣なことばで言い返されるだけです。その人のことを思ってしてあげても、恨まれるだけなので、もうかかわらないほうがよいのです。知恵のある人は違います。忠告すると、前以上にあなたを愛してくれます。」

親切心で注意したことが、反感を買ってしまったという経験を誰もがもっていると思います。聖書が教える霊的な原則は、聞く耳のある人には教えることに意味がありますが、そうでない人にはしないほうがいいということです。それはまた、「教えやすい心」(Teachable heart)を持つことの大切さを聖書は教えています。自分以外は皆師であると、学ぶ心がある人こそ、知恵のある人です。

箴言 8章

「知恵は真珠にまさり、どんな喜びも、これには比べられないからだ。」(11節)

箴言における「知恵」は人格化されて語られます。「知恵」が単なる思考の問題ではなく「生き方」そのものに関わることを示しています。ですから、箴言は一貫して一時の快楽ではなく、「知恵」を求めることを勧めます。どんな宝よりも「知恵」を求めることを勧めます。それでは、どこでまことの「知恵」を見いだすことができるのでしょうか?新約聖書にその究極的な答えを見ることができます。

「キリストは神の力、神の知恵なのです。」(Ⅰコリ1:24)

もし、本物の知恵を求めるならば、私たちはイエス・キリストとの関係からはじめなければなりません。イエス・キリストとの関係は、どんな宝にもまさり、何も比べることはできません。

「主よ、あなたは銀よりも貴い。主よ、あなたは金よりも価値がある。主よ、あなたはダイヤモンドより美しい。比べうるものは何もない」