ネヘミヤ 2章

「あるとき、私は夜中に起きた。ほかに数人の者もいっしょにいた。しかし、私の神が、私の心を動かしてエルサレムのためにさせようとされることを、私はだれにも告げなかった。また、私が乗った獣のほかには、一頭の獣も連れて行かなかった。」(12節)

神からの思いが与えられたからと言って、何も考えずに行動すればいいというわけではないことがネヘミヤの行動から分かります。彼の行動はまず、祈りから始まります。そして、人々にその計画を明らかにする前に、自分でまず下調べをしています。彼は

「天の神ご自身が、私たちを成功させてくださる。」(20節)

と言い、

「私の神が、私の心を動かして」

と言います。しかし、彼は自分でやるべきことを、計画的に行っていました。信仰に生きることは理性を捨てることではありません。祈ることと考えることは相反することではありません。彼はまた

「夜中に起きた」

と言います。神のために犠牲を払う姿勢も大切です。

ネヘミヤ 1章

「私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って」(4節)

ネヘミヤは「王の献酌官」(11節)でした。彼はそのままで、生活は保障されていたようなものでした。しかし、人生というのは、自分の生活が保障されていればいいというものではありません。神が私たち一人一人を目的をもって造られましたので、私たちは自分が造られた目的に生きるまでは、どんなに保障されていても満足することはありません。聖書は言います。

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」(ピリピ2:13)

神は私たちの内側に働かれて、ネヘミヤがそうであったように、私たちがいてもたってもいられなくされます。私たちが心に留めるべきことは、ネヘミヤが数日の間、祈っていたということです。祈りを通してのみ、私たちは神の目的に生きることができるからです。

エズラ 10章

「立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」(4節)

今日の箇所から神が私たちに教えていることは、エズラがリーダーシップをとることができた理由の一つは、彼を励まし、彼を支える協力者たちがいたということです。どんな組織や団体でも、リーダーを励まし、協力者となることができる人々が必要とされています。特に、神のために立ち上がった献身者たちを、励まし、協力する姿勢が必要です。1節には、こんなことが書いてあります。

「エズラが神の宮の前でひれ伏し、涙ながらに祈って告白しているとき、イスラエルのうちから男や女や子どもの大集団が彼のところに集まって来て、民は激しく涙を流して泣いた。」

一緒に泣いて、一緒に祈ることを通して、開かれる世界があることを心に留めたいと思います。
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう。

エズラ 9章

「しかも、つかさたち、代表者たちがこの不信の罪の張本人なのです。」(2節)

指導的な立場に立つ人は、高い道徳が要求されます。人を教える人も、高い道徳が要求されます。このエズラ書では混血の問題が扱われていますが、新約聖書の光に照らすならば、こう言い換えることができると思います。

「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。」(ガラテヤ5:16,17)

自分の欲望に生きる生き方と、聖霊に導かれる生き方は共存することができないということだと思います。もし、指導的な立場の人がいつも自分の利益しか考えていなければ、その共同体は悲劇です。指導的な立場にある人は、特に、聖霊の導きを求めて謙遜に生きる姿勢が求められます。指導者たちのために祈りましょう。

エズラ 8章

「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。」(21節)

エズラたちの時代、盗賊の問題もありましたので、旅行をするというのは命がけでもありました。特に、22節にあるように、ペルシャの軍隊の援護を仰がないということになると、彼らにとってはとても大きな決心が必要だったことは確かです。彼らは不安になるよりも、断食して、道中の無事を祈り求めました。何よりもまず、神の前でへりくだり、神に守りを祈る姿勢は大事なことです。今、私たちはエズラの時代のような危険はありませんが、道中の無事を祈り求める姿勢は大切なことです。
「加害者にも、被害者になることもなく、すべての事故、トラブルからお守りください。」

エズラ 7章

「私たちの父祖の神、主はほむべきかな。主はエルサレムにある主の宮に栄光を与えるために、このようなことを王の心に起こさせ、王と、その議官と、すべての王の有力な首長の好意を私に得させてくださった。私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」(27,28節)

神はエズラが、アルタシャスタ王をはじめ、ペルシャの有力な人たちから好意を得られるように働きかけられました。神はどんな人の心にも働きかけ、主に栄光が帰されるために、主の民が好意を得られるようにと導かれるお方でもあります。人の感情はそもそも非論理的なものです。好意もとても主観的なものです。しかし、神は人々から好意を得られるように導かれるお方です。初代教会も、

「神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。」(使徒2:47)

とあります。

エズラ 6章

「ユダヤ人の長老たちは、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの預言によって、これを建てて成功した。彼らはイスラエルの神の命令により、また、クロスと、ダリヨスと、ペルシヤの王アルタシャスタの命令によって、これを建て終えた。」(14節)

イスラエルの人々が神殿を建てることに成功した理由の一つとして、預言が挙げられています。ここでいう預言とは、ハガイ書、ゼカリヤ書に記録されている聖書のみことばです。私たちが何かを成し遂げるためには、いろいろな要素が必要ですが、何よりも、神の御言葉、聖書に耳を傾ける必要があります。自分の思いや、自分の意志で成し遂げようとして、行き詰まる時があると思います。その時、何に耳を傾けるかが重要です。私たちは神の言葉、神の語りかけが必要です。神は今も、私たちが成し遂げることができるように聖書のみことばをもって、私たちを力づけられます。

エズラ 5章

「さて、預言者ハガイとイドの子ゼカリヤの、ふたりの預言者は、ユダとエルサレムにいるユダヤ人に、彼らとともにおられるイスラエルの神の名によって預言した。」(1節)

二人の預言者がどんな預言をしたかは、ハガイ書とゼカリヤ書に書いてあります。ハガイ書2章にこう記録されています。

「仕事に取りかかれ。わたしがあなたがたとともにいるからだ。‐万軍の主の御告げ。‐あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。まことに、万軍の主はこう仰せられる。しばらくして、もう一度、わたしは天と地と、海と陸とを揺り動かす。わたしは、すべての国々を揺り動かす。すべての国々の宝物がもたらされ、わたしはこの宮を栄光で満たす。万軍の主は仰せられる。」(4‐7節)

世界を揺り動かすリバイバルを信じて、祈りましょう!

エズラ 4章

「すると、その地の民は、建てさせまいとして、ユダの民の気力を失わせ、彼らをおどした。」(4節)

キリストを信じて生きていくならば、逆風は吹かず繁栄するというのは、聖書的ではありません。イスラエルの人々は神殿を建て直そうと礎を据えて建て始めた時、逆風が吹きました。神の国のために何かをしようと思い立つ時、その気力を失わせるようなことが起こったりすることがあります。「どうして?」と思うようなことが起こったりすることがあります。逆風は、私たちがあきらめるために吹くのではなく、私たちが空高く舞い上がるために吹きます。もし、私たちが逆風を祈りに変えることができるならば、マイナスは必ずプラスになります。不可能に見える時こそ、神の奇跡を見る時になります。この後、預言者ゼカリヤが気力を失った人々に神の言葉を伝えます。

「『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。」(ゼカリヤ4:6)

エズラ 3章

「そのため、だれも喜びの叫び声と民の泣き声とを区別することができなかった。民が大声をあげて喜び叫んだので、その声は遠い所まで聞こえた。」(13節)

神殿の礎が据えられた時、ある人は喜び叫び、ある人は泣きました。同じ出来事に対しても、私たちの反応は違います。このことを意識することは重要です。神に礼拝をささげる時、ある人は喜び叫び、ある人は泣き、ある人は静まり、ある人は笑います。私たちが気をつけないといけないことは、神が臨まれている時の私たちの感情を決め付けることはできないということです。涙を流さなければ聖霊に満たされていないというわけではありません。喜び叫んでいなければ、聖霊に満たされていないわけではありません。聖霊の働きには多様性があることを認めることはとても大事です。重要なのは表面に出てくる感情表現ではなく、生ける神が臨まれることです。

今日は、主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日の第三礼拝(18時)は英語礼拝。ノリさんとバービーさん(WIND)が来られます!