ガラテヤ 2章

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(20節)

「神の御子を信じる信仰によっている」

と訳された言葉は、

「神の御子の信実の中でわたしは生きている」

と訳すことができます。信仰生活は、もちろん、イエス・キリストを信じる信仰によって生きていくという側面があります。しかし、同時に、それは、イエス・キリストの信実、私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたという神の御子イエス・キリストが成し遂げられた救いの御業の中で生きていくという側面があります。イエス・キリストの十字架の御業が、私たちの生きる原動力です。

ガラテヤ 1章

「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。」(17節)

アラビアとは、パウロにとっての退修の場所でした。私たちも日常から退却して神との時間をとるアラビアが必要です。友人や家族や批判者の言葉ではなく、神のみことばに耳を傾ける時間が必要です。静かな部屋で神様との時間をとるならば、それがアラビアとなります。日曜日の礼拝の時間もアラビアとなります。私たちは、神が愛されていること、赦されていること、受け入れられていることを自分の心に浸す時間が必要です。パウロは焦って自分の働きに出て行くことはしませんでした。彼は神が働かれていることを知っていました。神が彼を必要としているのではなく、彼が神を必要としていたのです。アラビアは、パウロにとって、神を自分の中心に据える訓練の場となりました。

今日は主の日。主を礼拝し、主の臨在に浸りましょう。

2サムエル 24章

「しかし王はアラウナに言った。『いいえ、私はどうしても、代金を払って、あなたから買いたいのです。費用もかけずに、私の神、主に、全焼のいけにえをささげたくありません。』」(24節)

ダビデは神に命じられたとおりアラウナと言う人の打ち場に行き、そこに祭壇を築くためにその場所を購入しようとしました。(ここに神殿が建てられます。)アラウナは無料でその場所を提供することを進言します。無料で手に入れることができるという話は、ダビデにしたら悪い話ではないはずです。しかし彼は言います。

「いやいや、ただで受け取るわけにはいかん。ぜひ、売ってもらいたい。神様に、何の犠牲もはらわず、完全に焼き尽くすいけにをささげたりはできんのでな。」(LB)

ダビデは、「犠牲」(いけにえ)の意味を理解していました。犠牲の伴わない、いけにえはありません。神は私たちの犠牲を受けるのにふさわしいお方です。

※ 明日のSSCは、第一(9時)、第二(10時半)、第三(18時)の礼拝で、神の家族主イエス・キリスト教会の田島実先生がメッセージしてくださいます。ぜひ、ご参加ください。

2サムエル 23章

「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。」(2節)

ダビデは、詩篇の詩を書いている時、神様が自分を通して語られていることに気づいていました。イエス様もそのことを認めています。

「ダビデ自身、聖霊によって、こう言っています。『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』」(マルコ12:36)

神様は今も、聖霊によって書かれた聖書のことばを通して、私たちに語られます。語る時に働かれた聖霊なる神様は、キリストを信じる者の内に住まわれ、聞く時にも働いてくださいます。聖書は言います。

「あなたがたはキリストによって聖霊が注がれている、だからあなたがたはみな真理を知っている。」(Ⅰヨハネ2:20TEV)

2サムエル 22章

「私の神によって私は城壁を飛び越えます。」(30節)

ある注解書でこう訳しています。

「私の神と一緒ならば、私はどんな壁も飛び越えることができる。」(WBC)

ダビデは、

「神様と一緒ならば、どんな壁も飛び越えることができる」

と晩年に告白しています。それは逆を言えば、いろいろな壁に頭をぶつけてきたという意味でもあると思います。ダビデはいろいろな壁にぶつかって、自分の小ささを体験する中で、膝を屈めることによって神が一緒なら大丈夫ということを確信していきました。リッチ・モーリンズというクリスチャン・シンガーがこんな歌を歌っています。

「委ねることが自然にできない。あなたが与える私に必要なものをとるよりも、むしろ本当は欲しくない何かのためにあなたと戦ってる。それで、何度も頭を壁にぶつけ、崩れ落ち、膝をかがめる・・イエス様、私を抱きしめて。葉っぱのように揺らいでるから。」

2サムエル 21章

「ダビデの時代に、三年間引き続いてききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた。」(1節)

ダビデはイスラエルの国の危機的な状況を見て、

「特別に時間をかけて祈りました」(LB)。

これがクリスチャンの姿勢です。すべての問題を、何かに関連付ける必要はないと思います。しかし、この日本の国が、社会的、経済的、道徳的、霊的な問題に直面しているのに、私たちは見て見ぬふりをするべきではありません。神はソロモン王に言いました。

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(Ⅱ歴代誌7:14)

神の御顔を求め、この日本の国のために主のみこころを求めて、呼び求めましょう。犯人探しではなく、主の前にへりくだり祈る人が必要です。

2サムエル 20章

「そこでアマサは、ユダの人々を召集す2サムエル 20章 「そこでアマサは、ユダの人々を召集するために出て行ったが、指定された期限に間に合わなかった。ダビデはアビシャイに言った。」(5,6節)

ダビデは、自分に反乱したアブシャロムの軍団長、アマサをヨアブの代わりに軍団長に任命しました。反乱者であっても、ダビデの息子であったアブシャロムをヨアブが殺害したため、ヨアブを避けたのだと考えられます。しかし、アマサは三日のうちに軍を召集する命令をうけたのに、間に合いませんでした。そのため、ダビデはヨアブの弟、アビシャイに任務を与えます。アマサがどうして間に合わなかったのか、理由は記されていません。しかし、チャック・スミス師は、この箇所からこんなことを言っています。

「神が命じられたならば、すぐ行動を起こすことは大事なことです。もし、神があなたに何かを語ってるなら、今それをしましょう。」

※本日のSSCはオープンチャーチ。ご参加ください!