2コリント 10章

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

今日の箇所を直訳しますと、こうなります。

「神の知識に反対するあらゆる高慢、そして、すべての思考を捕らえてキリストに従順するように連行する」。

この世界には様々な考え方がありますが、私たちは聖書的な信仰に自分の考え方を捕らえて連行する必要があります。自然に身につくというものでもありません。私たちはそのための道具が必要です。畑を耕すためには鋤が必要です。勉強をするためには本が必要です。料理をするためには鍋が必要です。祈るためには信仰が必要です。同じように、私たちの考え方を聖書的な信仰に捕らえて連行していくために、道具が必要です。教会に集うこと、聖書を読むこと、祈ること、聖書的な説教(メッセージ)に耳を傾けることなど、私たちは自分の考えを聖書的な考え方に連行する道具が必要です。

※ 本日の10時から12時まで、「クリスチャンの生活と証コース」が栄シャロームでもたれます。(婦人会は合流)申し込み、登録は不要です。自由にご参加ください。

2コリント 9章

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」(10節)

このみことばが意味することは、収穫は自分が蒔く種よりも多いということです。しかし、蒔くことをしなければ、収穫を体験することはできません。信仰の世界と言うのは、そのようなものです。理解できたら信じるというのではなく、信じていくときに理解することができます。ここでは、献金という文脈で語られています。献金の恵みは、大変な状況の中でも信仰をもってささげていくということを実践しなければ体験できない世界です。厳しい状況の中でも捧げて行くときに、まさに、「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる」という世界を体験します。よく言われることですが、一個のりんごの中にある種の数は数えられても、その種から生み出されていくりんごの数を数えることはできません。

2コリント 8章

「さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。」(1節)

この箇所でパウロが言う「神の恵み」とは「献金」のことです。ここでは特に「マケドニヤの諸教会に」とありますが、ピリピの教会のことです。2節にこうあります。

「多くの試練や困難のただ中にあったマケドニヤの諸教会が、ひどく貧しいにもかかわらず喜びに満ち、その結果、あふれるほど惜しみなく、他の人々に施すようになりました。」(LB)

パウロはピリピ書で彼らのことを言っています。

「贈り物を感謝するのはもちろんのこと、何よりもうれしいのは、その親切な行いのゆえにあなたがたが受ける、豊かな報いのことです。」(ピリピ4:17LB)

経済的に困窮している人に献金をお勧めすることは申し訳なく感じます。しかし、献金を通して受ける豊かな報いは、それ以上です。ですから献金は私たちに与えられた神の恵みの世界です。

2コリント 7章

「マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。」(5,6節)

使徒パウロと聞くと、私たちとは違う屈強なスーパー・クリスチャンをイメージします。しかし、使徒パウロもまた、私たちと何も変わらない普通の人でした。彼もまた不安を感じ、恐れを感じ、落ち込みました。しかし、

「その時、神様は意気消沈しているものを励まし、テトスの帰還によって元気づけてくださいました。」(LB)

聖書の神は、意気消沈しているものを励ますお方です。今も同じように、神様は私たちを励ましてくださるお方です。ダビデもこう告白しています。

「神様だけが、今は恥じてうなだれている私の頭を、高く持ち上げてくださるお方です。」(詩3:3LB)

2コリント 6章

「私たちは、この務めがそしられないために、どんなことにも人につまずきを与えないようにと、」(3節)

パウロは自分が伝道の妨げ、周りの人々のつまずきにならないように気をつけてきたと言います。LBではこのように訳しています。

「私たちは自分たちの行動が、だれかをつまずかせたり、主との出会いを妨げたりすることがないように、また、主を非難する口実に用いられないように気をつけています。」

私たちの行動が、だれかが主と出会うことを妨げるのならば、これほど悲しいことはありません。パウロのように細心の注意を払っていても誰かをつまずかせてしまうこともあります。しかし、パウロのような姿勢をもつことは大切なことだと思います。イエス様は、子供たちがイエス様のもとに来るのを妨げようとした弟子たちの行動を怒ったとあります。イエス様との出会いを妨げるならばイエス様は必ず怒られます。今日は主の日。多くの方が、主との出会いを体験できますように。

2コリント 5章

「肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(9.10節)

すべての人は、やがて、キリストのさばきの座に立ちます。しかし、キリストを信じる者たちにとってのさばきの座というのは、賞を受けるさばきの座です。ここで使われている「さばき」という言葉は、オリンピック・ゲームの審判に使われる言葉です。この地上で、私たちが良い行いをして、人々から称賛されたら、私たちの報酬はこの地上ですでに受け取ったことになります。しかし、主のために奉仕しても、誰からも評価してもらえないことがあります。それらの報いを、このキリストのさばきの座で受けるのです。「よくやった」と言われるその日まで、主に喜ばれることをしていこうではないでしょうか!

2コリント 4章

「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。」(1,2節)
使徒パウロは、神のみことばを教えることに対して聖なる畏れをもっていました。異端や新興宗教は、平気で神のことばを曲げて話しますが、それは大変恐ろしいことです。LBでは、
「書かれてもいないことを、聖書の教えであるかのように思わせることも、決してしません。」
とあります。神のみことばに対する畏れは、神のみことばを教える立場にある人には必須条件です。聖書はいろいろと解釈できるという人がいますが、そんなことはありません。聖書は、自分が言いたいことにつじつまを合わせるために存在しているわけではありません。聖書には聖書の文脈があります。私たちは聖書に自分の言いたいことを読み込むのではなく、神が語られていることを読み取ります。

2コリント 3章

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(16-18節)

神が私たちに一番求められていることは、主に向くことです。問題やこの世の楽しみに私たちが向いているならば、神が与えようとしている自由を体験することは難しいからです。聖書は言います。

「私たちの指導者であり、教師であるイエス様から、目を離さないようにしなさい。」(ヘブル12:2LB)

ペテロが、イエス様から目を離した瞬間、沈んでいってしまったように、イエス様から目を離してしまうと、私たちは沈んでしまいます。しかし、イエス様の方に向くのならば、聖霊なる神様が必ず私たちの人生を栄光から栄光へ変えて下さいます。

※ 本日の10時から12時まで、「クリスチャンの生活と証コース」が栄シャロームでもたれます。(婦人会は合流)申し込み、登録は不要です。自由にご参加ください。

2コリント 2章

「あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。」(7節)

日本人は道徳観が比較的に高い国民だと思います。そのため、それぞれが持つ倫理規準に達さない人を切り捨てやすいという側面もあると思います。しかし、それはイエス様がしたこととは違います。イエス様は逆に、自分の基準で裁く人を裁かれました。同じようにキリストのからだである教会にいつも必要なのは恵みの雰囲気です。教会は恵みのビニルハウスである必要があります。神の前に悔い改める人が、切り捨てられるのではなく、回復できる場所である必要があります。使徒パウロは言います。

「今はむしろ、赦し、慰めてやりなさい。そうしないと、余りの悲しみと絶望に打ちひしがれて、立ち直れなくなるかもしれません。」(LB)

神様は私たちを切り捨てたいのではなく、回復したいのです。