申命記 28章

「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(2節)

28章は祝福とのろいの箇所です。祝福の道も、のろいの道も、私たちが選び取るものだと聖書は言います。呪いに関して聖書は次のように記しています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

榎本師はこう言います。

「イエス・キリストの十字架はのろいからの救いであるということである。のろいから救われたからといって、それで祝福の世に生きているということにはならない。(中略)神がキリストにより私たちに豊かな祝福を得ることができるようにしてくださったがゆえに、私たちはみ言葉への聴従に徹するべきなのである。」

祝福の道は、聖書のみことばに生きる(聴従)姿勢を選ぶことにあります。

申命記 27章

「またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさい。」(7節)

神に捧げるのですが、捧げた肉を神の御前で食べ、喜ぶことが、「和解のいけにえ」です。私たちは神に賛美を捧げるのですが、その賛美の中で神の臨在を体験し、喜び、楽しみます。捧げることを通して、主の臨在にある喜びを体験するのです。神に捧げなければ、それを食べることはありません。そして、その時を喜ぶことさえできません。ですから、私たちはまず、時間を神に捧げる必要があります。心から賛美の声を上げる必要があります。そして、神を礼拝する時間を過ごすことを通して、神の臨在を喜び楽しむことができます。

「神様を喜ぶことこそ、あなたがたの力なのだ。」(ネヘミヤ8:10)

神を喜び楽しむ中で、今日を生きる力を体験することができます。

申命記 26章

「あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。」(5節)

イスラエルの人々は、何か特別な存在だったわけではありませんでした。彼らの父祖は「さすらいのアラム人」でした。彼らはヨセフを通してエジプトに下り、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。彼らはエジプト人に虐げられ、神に助けを叫び求めました。神は彼らを省みられました。

「そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。」(8,9節)

この箇所を通して聖書は、私たちが自分の人生を振り返り、神に感謝と礼拝を捧げることの大切さを語っています。

申命記 25章

「あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。」(15節)

私たちがこの地で幸せな生活を過ごすためには公正が必要です。ごまかし合っていれば、結局のところ、社会全体が崩壊していきます。誰も見ていなくても、神は見ておられるということを意識して、誠実に、公正に生きることを神は私たちに望まれています。しかし、「完全に正しい」ものがこの世に存在するのでしょうか?聖書は「あなたは正しすぎてはならない。」(伝道者7:16)とも言います。生真面目になりすぎて、あそびの部分がなくなることも聖書は問題視していることを私たちは心に留める必要があると思います。「完全」と訳された言葉は「シャローム」と同じ語根で、「平和、全体、調和」という意味が含まれます。「完全に正しい」とは、主観的に正しすぎることとは違います。

申命記 24章

「思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」(18節)

神様がイスラエルの人々に他者を顧みるように命じられた理由は、彼らがただ神様の恵みによって、エジプトの苦役から救い出されたからです。自分の苦しめられた経験を忘れてはいけないということです。痛みを知っているのだから、その痛みを重くしないようにやさしくすることが大切であるということです。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント1:4)

私たちは、神様の恵みによって苦難を乗り越えることができたことを忘れずに、励ましあうことが大切です。

申命記 23章

「しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。」(5節)

神様はのろいを祝福に変えてくださる神様です。ですから、イエス・キリストを信じる者は、のろいを心配する必要はありません。ヨセフの人生もいい例です。彼は言いました。

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(創世記50:20口語訳)

神様は悪を良きに変えられるお方です。ですから、私たちは恐れる必要はありません。神様は言われます。

「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。裁きの座であなたに対立するすべての舌を、あなたは罪に定めることができる。これが主の僕らの嗣業、わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。」(イザヤ54:17新共同訳)

今日は主の日。主に共に礼拝を捧げましょう。

申命記 22章

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。」(1節)

私たちは面倒なことに関わりあいたくないという思いが強いと思います。しかし、聖書は「知らぬふりをしていてはならない」と言います。「正直者は馬鹿を見る」と言われますが、聖書はこう言います。

「正しい行いをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。」(ガラテヤ6:9LB)

また、聖書はこうも言っています。

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ2:4口語訳)

作家のマーク・トゥエインは、

「自分を励ます最良の方法は、ほかの人を励ますことだ」

と述べていますが、聖書が教える法則は、だれかを助けることは自分をも助けるということです。

申命記 21章

「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」(23節)

イエス・キリストが、どうして十字架にかけられて死ななければならなかったか、その理由がここにあります。ガラテヤ書では、こう解説しています。

「本来なら、私たちが自分の悪い行いゆえに受けなければならないのろいを、キリスト様は、自分の身に引き受けてくださったのです。そして、滅びる以外にない状態から、私たちを救い出してくださいました。なぜなら、聖書に、〔イエスが木の十字架にかけられたように〕『木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である』と書いてあるからです。」(3:13LB)

イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストが私たちの身代わりにのろいを引き受けてくださいましたから、祝福されています。イエス・キリストの十字架の意味を無意味にしないように、この真理をしっかりと握り締める必要があります。