ヤコブ 2章

「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(13節)

LBでは、今日の箇所をこのように訳しています。

「思いやりのない人には、容赦なくさばきが下ります。しかし、情け深い人は、神様にあわれんでいただけるのです。」

神様が私たちに求めておられることは、思いやりのある人、情け深い人になることです。人を裁く人を、聖書はとても厳しく注意します。

「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ローマ2:1新共同訳)

つまり、人差し指を他人に指す時に三本の指が自分に向いているということを意識する必要があるということです。
「あわれみ深い人になれますように。」

ヤコブ 1章

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(17節)

聖書の神様は、良い神様であり、良いものをくださる神様です。神様が与えてくださるものはすべて良いもので、完全なものです。さらに、神様は変わることがありません。神様は過去と未来の神様であるだけでなく、今も変ることのない、今生きておられ、私たちを愛し、導き、守ってくださる、良いものを与えてくださる現在の神様です。私たちは神様のイメージを聖書的にする必要があります。聖書の神様は、神話に出てくるような良いものを奪っていくわがままな存在ではなくて、私たちを愛し、私たちに関心をもち、良いものを与えてくださる神様です。この確信に、私たちの心が深く満たされることは大切なことです。

ゼパ二ヤ 3章

「その日、エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」(16、17節)

ゼパニヤの預言は、この世の終わりに関する内容で閉じられています。この預言も、この世の終わりに成就します。しかし、その前味を私たちは今、キリストがこの地に来て下さったことによって味わっています。キリストは言いました。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

キリストこそ「救いの勇士」。礼拝をささげるそのただ中に、「救いの勇士」はおられます。キリストは墓を打ち破り、よみがえり、今も生きておられる「救いの勇士」です。このお方は、私たちの賛美を喜ばれ、楽しまれます。

ゼパ二ヤ 2章

「主の定めを行なうこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。」(3節)

「さあ、集まって祈れ、恥知らずの国民よ。審判が始まるまで、まだ時間がある。残された機会はわずかだ。もみがらのように吹き飛んでしまう。さあ、神様の激しい怒りが襲いかからないうちに。恐るべき神様の怒りの日が臨まないうちに。謙そんに神様のおきてに従おうとしている者たちよ、さあ、神様に助けを請え。謙そんになって、正しいことをせよ。そうすれば、その運命の日に、守っていただけるかもしれない。」(1-3節LB)

ゼパ二ヤ書のメッセージは裁きの警告です。しかし、裁きには目的があります。裁きが目的ではありません。むしろ、裁きは来るべき世界のための備えです。お客様を迎えるために準備をするように、私たちも準備をする必要があります。神は、神の家族を集め、そのただ中に住みたいと願われます。今日は主の日。共に集まり、祈りましょう!

※ ペンテコステおめでとうございます。

本日の第三礼拝(18時)は、鶴見でもたれる合同聖会に合流するためお休みします。

ゼパ二ヤ 1章

「その時、わたしは、ともしびをかざして、エルサレムを捜し、そのぶどう酒のかすの上によどんでいて、「主は良いことも、悪いこともしない。」と心の中で言っている者どもを罰する。」(12節)

ゼパニヤは、バビロン捕囚以前の最後の預言者です。この書は、悲しみで始まり、歌声で終わります。今日の箇所は、悲しみの部分です。神様を信じていた当時の人の中に、「主は良いことも、悪いこともしない」、つまり、自分たちの日常生活に関心もなく、関わりもされないと考え、罪にどっぷりつかっていた人たちがいました。キリスト教会も、気をつけないと同じ失敗を繰り返す可能性があります。イエス・キリストは、ただ二〇〇〇年前に生きておられただけではありません。十字架にかかり死なれましたが、よみがえられて、今も、生きておられます。イエス・キリストは私たちを愛しておられ、私たちを気にかけておられ、私たちに良き働きをされるお方です。

へブル 13章

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(15節)

神が「いけにえ」を規定されました。イスラエルの人々は、「いけにえ」を守りました。しかし、「いけにえ」は形骸化し、心が伴わないものとなりました。ダビデは罪を犯した後、悔い改めて、こんな歌を作りました。

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16,17)

神は私たちの賛美を愛されますが、私たちの心からの賛美を願われます。ですから、賛美が「いけにえ」と呼ばれます。口先ではない、心からの賛美が捧げられることを、神は願っておられます。

へブル 12章

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(2節)

イエス様は、私たちの信仰の創始者であり、完成者だと聖書は言います。私たちの信仰は、イエス様から賜物として与えられているものです。そして、イエス様は私たちから離れることなく、信仰の働きを完成してくださいます。ですから、使徒パウロは言いました。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)主は、あなたを見捨てるためにここまで導かれたわけではありません。主は必ず、主の働きを完成されます。ですから、私たちはただ、イエス様から目を離さないことが大切です。

へブル 11章

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(6節)

神に喜ばれる者となるためには、信仰が必要です。私たちは二つのことを真剣に信じる必要があります。

第一番目に「神がおられること」。

神の存在を信じることができなければ、神に喜ばれることはありません。天地万物を創造し、支配される三位一体なる神を、信じる必要があります。私たちを愛し、私たちに関心をもっておられる生ける神の存在を信じる必要があります。

第二番目は、「神を求める者には報いてくださる方であること」を信じる必要があります。

特に、「求める」と訳された言葉は「熱心に求める」という意味があります。私たちの熱心な祈りに答えてくださる神がおられることを信じる必要があります。

へブル 10章

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(25節)

地域教会の一員として、他のクリスチャンと一緒に教会に集まることには大きな意味があります。お互いの存在を通して励ましあうことができます。また、クリスチャンが集まることによって、地域教会はキリストの体としての機能を果たすことができるようになります。また、人々が集まることを通して教会は、キリストの体の一部としての適切な発展をすることができます。教会はまさにこの世界の希望です。教会の創始者はキリストであり(マタイ16:18)、私たちが共に集まるそのただ中に、キリストは臨在されるとおっしゃられました。(マタイ18:20)教会生活を大切にしようではないでしょうか。

へブル 9章

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(27、28節)

 聖書は言います。

「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6:23共)

キリストは、私たちの罪のために、「罪が支払う報酬」を払ってくださいました。そして、キリストは死に勝利され、復活されました。そして、再びこの世の終わりに、この地に来られます。この世全体の終わりが来なくても、すべての人には、個人的なこの世の終わりが存在します。人は死亡率が100%、無視できません。聖書はさらに、その後、神の御座の前に立つことも定まっていると言います。しかし、キリストを救い主として信じているのならば、その日を恐れる必要はありません。