ホセア 9章

「刑罰の日が来た。報復の日が来た。イスラエルは知るがよい。預言者は愚か者、霊の人は狂った者だ。これはあなたのひどい不義のため、ひどい憎しみのためである。」(7節)

 LBではこう訳しています。

「イスラエルの刑罰の日がきた。ついに報復の日が訪れた。やがてイスラエルは、そのことをいやと言うほど思い知らされる。『預言者たちは頭が変だ。』『霊感を受けた人たちは気が狂っている。』こう言って人々はあざ笑う。それは、この国民が罪のうちに沈み、神を愛する者たちに憎しみしか示さないからだ。」

当時の人々が、神の御言葉に耳を傾けずに批判した本当の理由は、彼らの罪、憎しみ、敵意のゆえだったと言います。今も、聖書やキリスト教会を批判する多くの人たちの理由は、自分たちの罪や憎しみ、敵意であることが多々あります。ですから聖書は勧めます。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(Ⅱテモテ4:2)

ホセア 8章

「イスラエルは自分の造り主を忘れて、多くの神殿を建て、ユダは城壁のある町々を増し加えた。しかし、わたしはその町々に火を放ち、その宮殿を焼き尽くす。」(14節)

LBでは前半部分をこう訳しています。

「イスラエルは大きな宮殿を多く建て、ユダは町々の防備を固めた。だが、どちらも、自分たちを造った神を忘れてしまった。」

造り主なる神様を忘れて何かをすることほど、空しいことはありません。詩人も明確に歌います。

「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」(詩127:1新共同訳)

主ご自身が建ててくださると言っても、建てる人の労苦は、造り主を忘れている人と同じようにあります。ただ、造り主を覚えているならば、その労苦が主にあって無駄になることはありません。

ホセア 7章

「イスラエルの高慢はその顔に現われ、彼らは、彼らの神、主に立ち返らず、こうなっても、主を尋ね求めない。」(10節)

厳しい言葉ですが、私たちは心に留める必要がある言葉だと思います。私たちはいつも、へりくだって、神様に立ち返る必要があります。私たちの人生に起こる問題は、神様を求める機会となります。ですから、問題の中で祈りに導かれないなら、その問題も意味のないものとなってしまいます。メッセージ訳では、

「すべてのしるしにも関わらず、神を無視している」

とあります。いかがでしょうか。神様を無視していないでしょうか。こういう賛美があります。

私はあなたが必要です。

主よ。あなたが必要です。

自分の力だけで、

この人生をやりきることはできません。

へりくだり、心から、「主よ、あなたが必要です」と求めることができますように。

 

ホセア 6章

「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(3節)

「知る」というのは、単に知的に知るという意味ではありません。体験すると言う意味があります。神様を体験することを切に追い求めることを聖書は語っています。神様を体験するためには、聖書の神のみことばに生きる必要があります。祈り、聖霊なる神様の導きに生きる必要があります。時には信仰の冒険が求められます。LBではこう訳しています。

「そうだ、神様を知ろう。ほんとうに、神様を求めよう。必ず夜明けが訪れ、早春の雨期が来るように、神様は必ず報いてくださるのだ。」

私たちが神様を体験することをせつに追い求めていく中で、神様は必ず報いてくださいます。

 

ホセア 5章

「わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。」(3節)

人は、アダムとエバ以来、神様から隠れられると思う傾向があります。私たちがしていることを神様は知らないと思ってしまうのです。しかし、アダムとエバが隠れることができなかったように、人は、神様から隠れることはできません。神様は、「わたしに隠されていなかった」と言います。神様はすべてのことを見ておられ、すべてのことを知っておられます。私たちが考えていることでさえ、神様に隠すことはできません。すべてのことを知った上で、イエス・キリストは私たちのために死んでくださいました。すべて知った上で、神様は私たちを愛されているのです。私たちは何も隠すことなく、神様に正直に語り、告白し、委ねることができます。

ホセア 4章

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」(6節)

この箇所で神様は、当時の宗教指導者たちが、本来、神の御言葉を教える立場にあったのにも関わらず、その役割を成し遂げなかったことを批判します。人々が滅ぶ理由は、彼らが神のみことばを教えなかったからだと言うのです。残念ながら、この現象は今も続いています。影響力がある立場にある宗教指導者たちの中には、聖書に対して不信感を抱かせるようなことを告げ、あたかも聖書を信頼できないもののように教えている人たちがいます。そして、聖書に生きる意欲を失わせて、滅びに向かわせるのです。私たちは、「聖書は誤りなき神のことば」という知識を広める必要があります。そして、時が良くても悪くても、聖書のみことばに学ぶ必要があります。

ホセア 3章

「そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。」(2節)

ホセアは、自分を捨て、わがままきままに自堕落な生活を選び、落ちぶれ、奴隷として売られていた妻を、お金を支払って買い戻しました。イエス・キリストもまた、神に背を向け、わがままに生き、暗闇の奴隷となっていた私たちのために、ご自身のいのちという値を支払って買い戻してくださいました。使徒ペテロはこう言っています。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18,19)

だからこそ使徒パウロはこのように勧めます。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:20)

ホセア 二章

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(14節)

神様は私たちをくどかれるお方だと言います。私たちがどんなに不誠実でも、神様は私たちを愛することをやめることはできません。しかし、神様が私たちをくどいて、優しく私たちに語るために連れて行く場所は、「荒野」だと言います。「荒野」と聞いて連想することは、「試練」だと思います。確かに、私たちは「試練」の中で、祈りに導かれ、その中で、神様の優しい語りかけを聞くことが多々あります。そう考えると、もしかしたら、私たちの人生の中に起こる試練は、神様のくどきと言えるかもしれません。ですから、荒野のような時こそ、私たちは神様の優しい語りかけを聞く時ということを意識して、祈りつつ、御言葉に耳を傾ける必要があります。神様は優しく、語ってくださいます。

ホセア 1章

「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、「あなたがたはわたしの民ではない。」と言われた所で、「あなたがたは生ける神の子らだ。」と言われるようになる。」(10節)

ホセアは、紀元前722年の北王国の滅亡の前に、北王国に遣わされた預言者です。彼は遊女と結婚することによって、神の民イスラエルの不誠実さを象徴的に表すという使命をいただきました。今日の箇所で神様は、不誠実なイスラエルの人々に対し、神の恵みを宣言しています。

「それでも、イスラエルが栄え、大きな国民となる時がくる。その日には、海岸の砂浜のように数え切れないほどの人口となる。その時は、彼らに、『おまえたちはわたしの国民ではない』と言わずに、『おまえたちはわたしの息子、生ける神の子供だ』と言おう。」(LB)

神様は、恵み深い神様です。

 

1テモテ 6章

「しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」(11,12節)

パウロにとって信仰生活は決して受動的なものではありませんでした。彼はテモテに、信仰の戦いを勇敢に戦うように言います。確かに、信仰を守っていくためには、戦いがあります。私たちは自分の意志で、信仰を選択していく必要があります。金銭を愛し追い求めていく生活を避ける選択をする必要があります。
「神様を信頼し、人を愛し、忍耐強く、ものやわからかな態度を身につけ」(LB)ることを選択していく必要があります。

「主よ、信仰の戦いを勇敢に戦い抜くことができるように助けてください。」