イザヤ 4章

「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(5、6節)

 この箇所が預言していることは、最終的には、この世の終わりに成就することです。しかし、今、その前味をキリスト教会に見ることができます。この預言が、「会合の上に」(新共同訳では「集会」)と言われていることは注目に値すると思います。信仰生活はキリストとの個人的な関係が大切ですが、教会という集まる所に表される神様の栄光、臨在というものがあります。ですから聖書は警告します。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

イザヤ 3章

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(1節)

 私たちは、とにかくいろいろなものに頼ろうとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(Ⅱコリント1:9LB)

「イエスさま、あなただけを頼りとすることができますように。」

イザヤ 2章

「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。」(17節)

 新約聖書の中で使徒ペテロはこのようなことを言っています。

「神様は、謙遜な者を特別、祝福してくださいますが、高慢な者には容赦なさいませんから。もしあなたがたが、神様の力強い手の下で慎み深くしているなら、ちょうどよい時に、神様は高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,:6LB)

人間の問題の一つは、高慢になって、自分があたかも神のように状況を支配できるかのように誤解することだと思います。そして、自分ではどうすることもできないような状況に直面し、へりくだらされ、自分はただの人間であることを知らされます。私たちは、謙遜に、自分が有限な人間であることを認め、神を認め、祈りの人生を歩むことが大切です。今日は主の日、王の王、主の主なる神を認め、礼拝を捧げましょう!

イザヤ 1章

「善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(17節)

社会正義は、神の国の現われであり、聖書が私たちに求めていることの一つです。自分は悪を行いながら、自分の思い通りに神様が動いてくれないという傲慢な姿勢は、聖書が厳しく非難しています。神様は私たちを愛してくださる恵み深いお方ですが、同時に、全世界を正義をもって治められる義なる神です。また、社会的弱者に対してあわれみの心をもつことも大切に語っています。もちろん、短絡的に何でも援助すればいいということではないことは、社会学的にも認知されていますが、慈しみの心をもち、できることを心がけていくことは、神の国に生きることであり、神様が私たちに求められていることでもあります。
「主よ、どうぞ私たちにあわれみの心、知恵と力をお与えください。」

雅歌 8章

「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(7節)

雅歌は、今から約2500年以上前に生きていたソロモン王が記したものと言われますが、興味深いことにこのころ既に「愛はお金で買えない」ことを知っていたことが分かります。しかも、ソロモン自身は栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることのできた人物でした。だからこそこのソロモンの言葉は説得力があります。現代に生きる私たちも愛を求めています。ギブアンドテイクの関係ではなく、そのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちは昔も今も変わりません。しかし、『神は愛です』とあるように、そのような愛は神にのみ期待できるものです。気仙沼の嶺岸先生は津波ですべてを押し流されてしまいました。しかし神の愛を消すことはできなかったと証されています。

雅歌 7章

「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、あなたの乱れた髪は紫色。王はそのふさふさした髪のとりこになった。」(5節)

 7章の最初から、様々な形容詞を用いて相手を称賛する言葉が続いているため、少々読み進める気力が失われてしまった方もいるかもしれません。また、その形容に使われている言葉がわれわれには馴染みの少ない言葉(例えばヘシュボンの池、カルメル山など)であるため想像がつかない、という方もいらっしゃるでしょう。『あなたの頭は富士山のようにそびえ』などと言う人はいないと思いますが、とにかくこの箇所で感じるのは、自分の持てるすべての言葉を用いて相手をほめることは大切だということです。相手を傷つけたり、不快にさせたり、批判したり、打撃を与える語彙を増やしていくよりも、相手を認め、建て上げる言葉を蓄えたいものです。

雅歌 6章

「女のなかで最も美しい人よ。あなたの愛する方は、どこへ行かれたのでしょう。あなたの愛する方は、どこへ向かわれたのでしょう。私たちも、あなたと一緒に捜しましょう。」(1節)

この節は、5章の『愛する方の紹介』に対する更なる応答の言葉です。私たちに適応するとすれば、イエス様の素晴らしさを私たちが余すところなく伝えた時、それを聞いた人々は、『私たちもあなたと一緒に捜しましょう』と応答する、ということであると思います。これは素晴らしい真理ではないでしょうか。
私たち自身がイエス様の中に生き、感じ、体験するならば、その私たちの姿をみて周りの人々に、「イエス様を知りたい」、という思いが生まれるのではないかと思うのです。味わってみなければ、そのおいしさを真に表現することはできません。まず、私たち自身がイエス様を体験していきましょう。

雅歌 4章

「花嫁よ。私といっしょにレバノンから、私といっしょにレバノンから来なさい。アマナの頂から、セニルとヘルモンの頂から、獅子のほら穴、ひょうの山から降りてきなさい。」(8節)

 パウロは、新約聖書において、教会とキリストとの関係を花婿と花嫁として描いています。その観点からこの箇所を読むととてもわかりやすく感じます。それは、イエス様が私たちに対してこのように愛を持って呼びかけておられる、ということです。
レバノンは、旧約の時代において異教の民が住む場所(フェニキア人の国)であり、バアル信仰を北イスラエル王国に持ち込んだ悪名高き王妃イゼベルは、フェニキアからイスラエルに嫁いできた人物でもありました。イエス様は私たちをそのような状態から救い出すためにこの地にこられ、『一緒に来なさい。』と、私たちの手をとって脱出させてくださる方です。

雅歌 3章

「没薬と乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上ってくるひとはだれ。」(6節)

 没薬と乳香、この組み合わせを読んで思い浮かべる聖書の場面がないでしょうか。新約聖書のキリスト誕生の時、東方から来た博士たちは救い主への贈り物として黄金、乳香、没薬を携えてきました。没薬とは、実は「ミイラ」の語源となった言葉でもあります。ご存じのように、それは、没薬が死者の埋葬の時に使用されたからです。ですから、そのところからキリストの地上においての使命を、東方の博士たちが理解していた、と考える人もいます。
さて、雅歌のこの箇所において、7節以下は結婚の喜びが書かれています。しかしこの喜びの時に没薬が用いられていることは、結婚が「自分に死ぬ」ことであることを表現していると言えるのかもしれません。今日は主の日。私たちの罪のために死に、葬られ、復活されたイエス様を礼拝しましょう。

雅歌 2章

「わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。」(2節)

 谷間のゆりのように、花嫁はいばらの中のゆりのようだと言います。これがイエス様が教会を見る目です。私たちは罪に満ちた世界に存在しています。しかし神様は、私たちにある美しさに目を向けられているというのです。時には、自分たちも汚染されてしまっているように感じる時があります。でも、イエス様は私たちを見て、私たちの美しさを見るというのです。私たちをいばらとは見ないのです。なぜならば、イエス様が私たちのためにすでに十字架の上で死んでくださったからです。イエス様の十字架は自分のためだったと信じ受け入れるならば、私たちはキリストの血潮によって美しくされるのです。たとえ、私たちの汚れが緋のように赤くても、雪のように白くする力があるのです。
「イエス様、あなたの十字架の御業を感謝します。あなたが私たちを特別に見てくださることを感謝します。」