ヨブ記 32章

「しかし、人の中には確かに霊がある。全能者の息が人に悟りを与える。」(8節)

今日の箇所で、突然、エリフという人物が登場します。彼はここまで、名前も存在も出てきません。この後も、再び名前も存在も出てきません。ですから、エリフの発言に関して様々な見解があります。しかし、ここにヨブ記のもう一つのテーマを見ることができます。それは、

「神は神であり、人は人である」

ということです。「この世の知恵」と「神の知恵」には、確かに違いがあります。人は、そもそも「全能者の息」によって「生きた者」(創世記2:7)となりました。そして、今、人は「全能者の息」によって、「理解」が与えられると言うのです。新約聖書の中で、この「息」と訳された言葉と同じ言葉が使徒の働き2:2で、「(激しい)『風』」として出てきます。ペンテコステの日、祈っていた一二〇名の兄弟姉妹の上に聖霊が臨まれました。その時、まさに、「全能者の息」によって、人々は理解する力も与えられたのです。

ヨブ記 31章

「だれか私に聞いてくれる者はないものか。見よ。私を確認してくださる方、全能者が私に答えてくださる。」(35節)

 31章は、ヨブのフラストレーションを感じ取ることができます。「もし・・・」と、7つの状態を提示し、それらに何かひっかかる所があるなら、因果応報は成立するから納得できると言うのです。ヨブは主張します。

「わしの言い分を聞き、わしの立場を理解してくれる者はいないのか。だれが何と言おうと、わしは正しい。もし、まちがっていたら、それを全能者に指摘してもらいたいものだ。」(LB)

ヨブは、因果応報の論理からはありえない、不当にひどい目にあっていると主張します。聖書が私たちに教えていることは、因果応報の中に神様を納めてはいけないということです。私たちが理解できることは限られていますが、神様は因果応報の法則に縛られるお方ではないからです。ですから、因果応報を土台にして生きていく生き方は、もろい生き方になってしまいます。

ヨブ記 30章

「私はあなたに向かって叫びますが、あなたはお答えになりません。私が立っていても、あなたは私に目を留めてくださいません。」(20節)

信仰者にとって一番辛いのは、神様が答えてくださらない、見捨てられたように感じる時だと思います。イエス様も、十字架の上で叫ばれました。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになるのですか。」

しかし、現実は、神様は見捨てていたわけではありませんでした。十字架を通して神様は勝利をとられ、復活はそれを証明しました。神様はヨブも見捨てていたわけではありませんでした。この後、実際に神様が介入されますが、神様が別にヨブに目を留めていなかったわけではなかったことが分かります。たとえそう見えなくても、神は私たちを見放すことも、見捨てることもありません。理解できない、判別もできない暗やみの中で、この明確な真理を手放してはいけません。

「イエス様を見上げることができますように。」

ヨブ記 29章

「私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった。」(14節)

 ヨブという人物は本当に祝福されていた人物でした。地域社会においても彼は人々から敬意を受けていました。なぜならば彼は正義を行なう人だったからです。彼はどんな人に対しても正しい扱いをしました。まさに、

「わしのすることはみな正しく、嘘偽りがなかった。正義こそ、わたしの衣だったのだ。」(LB)

しかし、正しく生きているからといって病気をしないわけではありませんし、問題に巻き込まれないわけではありません。だからといって神を否定したからと言って問題が解決されるわけでもありません。私たちが求められていること、それは、苦しみの極みである十字架にかかられたイエス・キリストを見あげることです。義人イエスが十字架にかかられたのは、私たちの罪の贖い、そして神の国をもたらすという目的がありました。私たちの苦しみにも意味があります。

2月の日曜日 February Sundays

3日(日)  マタイ21:1-:17 「宮きよめ」 

小山晶子牧師夫人 

9時、10時半、18時

10日(日) エペソ1:4-:14 「在主(in Christ)」 

小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC)              (HC)=聖餐式

17日(日)  エペソ1:15-:19 「心の目が開かれて」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

24日(日)  エペソ1:20-:23 「教会(えくれしあ)」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

 

※           アルファ・コース参加者募集中!

アルファ・コースは教会に行っていない人やクリスチャンになったばかりの人を対象にしたキリスト教信仰を分かりやすく紹介するキリスト教の主なグループ(カトリック、プロテスタント、正教会)で導入されているコースです。

ヨブ記 28章

「しかし、神はその道をわきまえておられ、神はその所を知っておられる。」(23節)

28章は、知恵の賛歌です。ヨブは言います。

「では、知恵はどこから来るのか。悟りのある所はどこか。それはすべての生き物の目に隠され、空の鳥にもわからない。」(20,21節)

鉄や銀や金を発掘できても、知恵は発掘できません。知恵は神様から来ます。私たちが正しく生きる動機、それは因果応報の故でなく、神の知恵がそう教えるからだとヨブは言います。

「さて、神様が全人類に言うことは、こうだ。『神を恐れることがほんとうの知恵、悪を捨てることがほんとうの悟りだ。』」(28節)

 「主よ、あなたの知恵を求めます。日々、神をおそれることを選ぶことができますように。」

ヨブ記 27章

「私は息絶えるまで、自分の潔白を離さない。」(5節)

  「潔白」と訳されたことばを、英語の訳では「INTEGRITY」(正直、清廉、高潔、誠実)と訳しています。タイヤのビスが一つ外れたからと言って、すべてのビスを外す必要はありません。逆境のときに、うまくいかないときに、私たちはヨブのように宣言する必要があると思います。友人たちに責められながらも、それでも、私は死ぬまで私は自分の人間としての尊厳を手放さないと。自分がたとえ理解できなくても、神はすべてをご存知です。そして、私たちの神は、私たちを愛し、私たちの人生に関心を持ち、私たちに最善をなしてくださるお方です。ヨブの苦難にも終わりがあったように、私たちもやがてトンネルを抜け出すときが来ます。ですから、ヨブのように、キリストのみ顔を拝するときまで、自分の尊厳を離さないようにしましょう。

「主よ、あなたの御顔を拝するその日まで、高潔な人生を歩めますように。」