Ⅰ歴代誌 27章

「ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」(23節)

当時の人口調査の理由は、兵士の数を数えるためです。ですから神様が人口調査を禁じた理由は、イスラエルの人々がマン・パワーに依存して、神様に頼らなくなることを危惧したからです。残念ながら、人は計算できる範囲内に生きていると、祈りがなおざりになっていく傾向があります。計算できますから、祈っても祈らなくても同じに見えてしまうのです。しかし、自分の頭で計算できない時、私たちは必死で祈ります。祈ることしかできないからです。いつも自分の計算できる範囲内に自分を置くならば、安定はするかもしれませんが、祈りがなおざりになって、霊的な部分が弱くなっていきます。計算することがすべて悪いわけではありません。しかし、計算することができない信仰の冒険の世界に挑戦する姿勢も大事です。

Ⅰ歴代誌 26章

「ヘブロン人のうち、エリヤは、その一族その家系によるヘブロン人のかしらであった。ダビデの治世の第四十年に、彼らは調べられ、そのとき彼らのうちにギルアデのヤゼルで勇士が見いだされた。」(31節)

  神様は私たちを見いだしてくださる神様です。たとえ群衆の中に埋もれていても、神様は放っておかれることはありません。イエス・キリストは言いました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)私たちは神様に見いだされ、神様が私たちを選んでくださったから、今、この聖書のみことばを読んでいます。ギデオンがそうであったように、そう感じないかもしれませんが、主は言われます。「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」(士6:12)

Ⅰ歴代誌 25章

「また、ダビデと将軍たちは、アサフとヘマンとエドトンの子らを奉仕のために取り分け、立琴と十弦の琴とシンバルをもって預言する者とした。その奉仕に従って、仕事についた者の数は次のとおりである。」(1節)

賛美しながら預言するということが、ダビデの時代に行われていたことは明らかです。それはつまり、賛美の中で神様が語られるということを意味しています。立琴と十弦の琴とシンバル(ドラム?)とありますから、騒がしい音楽の中で神様が語られたことが分かります。賛美の歌には二つの種類があります。神様に直接歌う「垂直」の賛美と、預言的な神の言葉を人々に語る「水平」の賛美です。昔からこの両面が大切にされてきたことを心に留めることは大事なことだと思います。賛美を歌う時、神様に直接歌うのですが、賛美の歌を通して神様が語られることがあります。ですから礼拝の中で賛美の時間と言うのは大事な時間です。

Ⅰ歴代誌 24章

「ナダブとアビフはその父に先立って死に、彼らには子どもがなかったので、エルアザルとイタマルが祭司の務めについた。」(2節)

  ナダブとアビフに関しては、レビ記一〇章にこう記されています。「さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を主の前にささげた。すると、主の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは主の前で死んだ。」(1,2節)彼らは「異なった火」を捧げたために、先立って死んでしまったと言います。神様から与えられた火、祭壇の火を用いる必要があったのにも関わらず、彼らは「異なった火」を捧げてしまったのです。これは主に仕える者の襟を正します。「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)とあるように、主が命じていないことを教えるならば、神は裁かれます。

Ⅰ歴代誌 23章

「立って朝ごとに主をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。」(30節)

  信仰生活の中において神様に賛美を捧げることはとても大切なことです。賛美を捧げるは日曜日の礼拝だけの話ではありません。「朝ごとに」、「夕べにも」とあるように、日常的に捧げることを聖書は命じています。日常的になると、賛美を捧げるような気分ではない時もあります。しかし、賛美を捧げることに私たちの気分は関係ありません。神様が賛美を受けるのにふさわしいお方だから、私たちは神様に賛美を捧げます。賛美のCDを日常的にかけることによって、賛美を捧げる時間を確保する方法もあります。歌う気分になれなくても、賛美のCDを聴きながら、いつのまにかに賛美の世界に引き上げられることもあります。賛美には不思議な力があるからです。神様が賛美を住まいとされると言われていることを心に留めたいと思います。

「主よ、朝ごとに夕ごとに、賛美の歌をあなたに捧げられますように。」

Ⅰ歴代誌 22章

「見なさい。私は困難な中にも主の家のために、金十万タラント、銀百万タラン
トを用意した。また、青銅と鉄はあまりに多くて量りきれない。それに、木材と
石材も用意した。あなたが、これらにもっと加えてほしい。」(14節)

ダビデはあり余る中から神殿建築のための資金を用意したわけではありませんで
した。彼自身、「困難な中にも」と言っています。ピリピ4:19、「私の神
は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をす
べて満たしてくださいます。」の約束は困難の中でも捧げたマケドニヤにあるピ
リピの人たちの教会に宛てられたものです。パウロはこう言います。「苦しみゆ
えの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさ
にもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。」(Ⅱコ
リント8:2)困難な中でも主のために捧げていく時に、主がご自身の栄光の富
をもって、私たちの必要をすべて満たしてくださいます。

Ⅰ歴代誌 21章

「しかし、ダビデ王はオルナンに言った。『いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。』」(24節)

ダビデは祭壇を建てるためにオルナンから土地を搾取することはしませんでした。さらにオルナンから「すべてを差し上げます。」と言われたのにも関わらず、ダビデは自分が十分な金額を支払って買いたいと主張します。もし、オルナンから買わなければ、それはダビデの捧げ物ではなく、オルナンの捧げ物になるからだと言いました。このダビデの姿勢は神様への捧げ物に関して私たちに大切なことを伝えていると思います。ダビデは神様に捧げ物をすることを特権だと考えていたことは確かです。ダビデは神様から何かを得ることよりも、神様に捧げることに心を留めていました。「受けるより、与える方が幸いということを理解できますように。」

Ⅰ歴代誌 20章

「彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。」(7節)

 現代における旧約聖書の理解の難しいところは、今日の箇所のような血なまぐさい箇所だと思います。どうしても人の命が軽視されているように感じてしまいます。当時の歴史的文脈を考えることも大切ですが、旧約聖書は旧約だという理解が大切です。「旧」が意味することは「古い」ということで、「新約」からの理解が必要ということです。新約聖書にはこう書いてあります。「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)。私たちをそしっているのは、人ではなく、悪魔、悪霊です。私たちは敵を間違えてはいけません。ですから聖書は注意します。「もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ5:15LB)

10月の日曜日 October Sundays

7日 ガラテヤ3:19-:22 「いのちを与えることができるのは?」 

小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式

14日 ガラテヤ3:23-:29 「キリスト・イエスの中で一つ」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

21日  ゲスト:中見透牧師

(御殿場純福音キリスト教会牧師、明治学院大学へボン研究会初代会長)

9時、10時半

 

ルカの福音書8:26-:39「イエスはどうして許可する?」

小山英児牧師

18時

 

28日 ガラテヤ4:1-:7 「三位一体の神」 小山英児牧師

9時、10時半

(18時からの第三礼拝は、保土ヶ谷でもたれる合同聖会に合流するため、お休みします。)

※ ガラテヤ書は、新約聖書の中にある使徒パウロがガラテヤの教会に宛てた手紙です。

Ⅰ歴代誌 19章

「ダビデは、『ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたのだから。』と考えた。そこで、ダビデは使者を送って、彼の父の悔やみを言わせた。ダビデの家来たちがハヌンに悔やみを言うため、彼のもと、アモン人の地に来たとき、アモン人のつかさたちは、ハヌンに言った。『ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。』」(2,3節)

 他者からの善意を、裏を読みすぎて失敗するということがあると思います。とはいえ、この世では確かに裏がある場合もあります。ハヌンはどうするべきだったのでしょうか。彼はアモン人のつかさたちの助言を心に留めて警戒しつつも、素直にダビデの弔意を受け取るべきだったと思います。他者の善意を素直に受け止めることも大切なことだと思います。
「主よ、他者の善意を素直に受け止める心を与えてください。」